The Fear in Lhasa
北京在住とされるチベット人ライター、ツェリン・ウーセルが「北京で感じるラサの恐怖」と題して、ジャミヤン・ノルブのBlogに寄稿している。3月14日の騒乱にラサで遭遇し、迫害を恐れて逃げてきた "DZ" と呼ばれるチベット人のストーリーだ。
きょうは時間の都合で一部だけ。来週時間があれば、続きを日本語訳します。
チベット語の分かる人間は、他にはカフェの中にはいないようだったが、私はDZにラサで起きたことを聞くのをためらった。DZは上流階級の生まれのようだった。「あなたは私たちよりチベット人らしく見える。チベットの服を着ると、チーツォク・ニーンパ(古めかしい社会)のチベット人のようになるだろう」と言っていたからだ。笑い声の中に、JMは彼が色のついた薄い光明の中で、確実に群衆の中に溶け込むことができると言った。
それで、DZは突然「銃を構えた兵士がラサ中にいる夢を見るんだ。北京を歩いていて、武警や公安を見ると、怒りと恐怖を感じるんだ。理由はわからないけれど」と話し始めた。DZが窓から外を見て、語調を落としてそれを話したので、ようやく彼がその気になったのだと知った。
「3月14日、ダムからギャンツェへ外国人ツアー客を連れて行ったときだった。途中で電話がかかってきて、ラサで事件が起きていて、ラモチェあたりのチベット人が気勢を上げていると聞いた。最初はラサに戻って来ないほうがよいという指示だったのでギャンツェで待っていたが、急いで戻ってこいという電話が今度はかかってきた。ラサに着くとすぐ、ツアー客をホテルに送り届けた。
午後だった。東側にあった店舗や車は壊されたり燃やされたりしていた。路上で大勢がチベット人の動向を見守っている郵電局の近くに私も走って行った。チベットは本当に独立しようとしている。そう言ってもよかったぐらいだ。2、3時間のうちは。
まもなく装甲車が数台やってきて、ズンズンズンという音とともに催涙弾を撃ち始めた。群衆は散って行った。やられた奴は店に入っていって、目を洗っていた。自分も喉が痛くなって、涙が止まらなくなった‥‥」
「群衆が撃たれたのは見た?」
「いや、なかったが、友達が死人を見たと言っていた。ラサ中等学校の近くで、チベット人だったらしい」
DZは頭を撃たれる真似をして、話を続けた。
「すぐ自分のところに戻った。疲れていたし、怖かったんだ。だから横になるとすぐ寝てしまった。だけど翌日には例のツアー客のところに行かなきゃならなかった。家を出るとすぐ、ぶっ倒れるかと思った。警棒や銃を手に持った兵士が目の前にうじゃうじゃいた。戻ろうかと思ったが、兵士が『こっちへ来い!』と叫ぶのが聞こえた。行かざるを得なかった。バンザイしたみたいに両手を上げさせられて、2人の兵士がボディーチェックを始めた。本当に怖かった。ジャケットのポケットにお守りが入っていた」 DZはお守りを取り出して、ちらっと見せてくれた。テンスン(お守り)にスンドゥ(聖なる紐)がついているのに私は気づいた。スンドゥはダライ・ラマによってとりわけ加持される神聖なもので、無病息災の象徴だ。チベット人にとっては本当に大切なものだ。
「そのときはクンドゥン(ダライ・ラマの称号のひとつ)のバッジも持っていた。それが兵士に見つかったら一巻の終わりだと思った。静かにクンドゥンに祈った。クンドゥンは本当に自分を護ってくれた。兵士は何度もポケットを探ったと思うのだけれど、見つからずに済んで、彼は「ひっぱたけ!」と舌打ちした」
DZは彼のセンスで自分の幸運を表現した。それはダライ・ラマへの彼の感謝の気持ちでもあった。彼は祈り、祈られたほうは答えた。
「兵士たちはチベット人の首をチェックしていたと聞いたんだけど、クンドゥンのバッジがかかったスンドゥを首から下げていたら、きっと彼らはそれをちぎり切って、地面に投げつけたでしょう。そうでしょう?」私はそう尋ねた。
「そうだね。地面に投げつけてから、チベット人にそれを踏むようにさせるだろうね。踏みつけるのを拒否したら、きっと逮捕されて連行されるだろう。手首に数珠をした若者たちは、兵士にそれを見つかって、連れて行かれたよ」
DZは左腕の数珠を見やった。
「両手を腕に上げてバンザイさせられたのは男性だけ?」
DZは私の目を覗き込むと、ゆっくり言った。「いや、男だけじゃない。男か女か、老人か、自分みたいな若者かに関わらず、チベット人だったら誰でもバンザイさせられて、ボディチェックされただろう。そんな侮辱を受けたことはなかったね。銃で武装した兵士たちに、チベット人みんなが手を上げさせられて、降伏したようにさせられているんだ。老人、女の子たちも例外じゃない。前に観た映画を思い出したよ。「日本鬼」が中国を侵略したり、国民党が共産主義者をいじめたりするのと同じ光景が目の前にあるわけだ」
DZの目は、屈辱に燃えているように見えた。
「自分はもうラサにはいられないと思った。逃げなければ、いつか捕まえる。捕まったツアーガイドのことを知っていた。それも5人以上も。ホテルにいた中国中央放送の記者たちと知り合いで、ラサを出るときに一緒に行こうと、彼らは誘ってくれた。兵士たちに警備されたチェックポイントがいくつもあって、この容貌でそれを越えるのは難しそうだったが、彼らは自分のことを映像チームのスタッフのひとりだと言ってくれた。そうやって彼らと一緒に鉄道駅に行った。駅では、短い髪の若者が捕まっているのを見た。たぶん僧侶だと思う。
ツォツォ川を渡る橋の上で列車は少し停まった。窓の外にはたくさんの兵士と軍用トラックが見えた。中央放送の記者たちは、それを格好のネタと思ったのだろう。ビデオを回し始めた。結果、兵士たちにビデオカメラの中のすべてを消去させられただけでなく、始末書を書かされることになった。もし同じようにチベット人が撮影していたら、すぐに逮捕、連行だろう。
西寧に着いたとき、ホテルはチベット人の宿泊を断った。中国中央放送の記者たちに感謝を告げ、他の2人の老女と一緒に私は別の宿を探した。
北京での最初の数日間、通りを歩いていて通行人にどこから来たのか聞かれるたびに、チベットから、と正直に答えていた。みんなすぐにうろたえていた。まるで自分がテロリストと見られているようだった。一度は武警の職務質問を受けて、詳しく調べれた。それ以来、特に用事のない限り、外出することがなくなったが、非常に退屈だった。
だからテレビを見る。テレビをつけると、番組ではチベット人が殴ったり、破壊したり、盗ったり、燃やしたりしていると言う。ラサとその他のチベットの地域がいかに兵士の支配下にあるかということを伝える番組を見ることはなかった。何人のチベット人が殺されたか、逮捕されたか、番組では決して触れられなかった。公式発表は嘘ばかりで、展開した部隊は民衆に決して発砲しなかっただの、部隊は街路を清掃しに来たのだの。確かに彼らは町を清掃しに来て、彼らの目にはゴミと映るチベット人を『掃除』して行ったんだ。」
DZは微笑んだ。私はその微笑みの中に、怒りと絶望とを見てとった。
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Traveling Soul
どんなに仕事が忙しいときでも、どんなに気持ちが落ち込んでいるときでも、どんなに足取りが重いときでも、この人に会うと励まされた。勇気をもらった。走り出したくなった。
初めて会ったのは、数ヶ月かけて準備した大きなイベントの会場で、わざわざ奈良から東京に来てもらったのだ。みんながすごい人だと言うから、興味津々だったのだけれど、見た目は小柄でぴょんぴょん跳ねそうな女の人だった。そのとき既に、がんという悪い病をどうにか乗り越えようとしているところで、治療のために短く切った髪が、逆に活発な感じに見せていた。何よりもキラキラと輝く目。この人が、人生をかけて自転車で世界一周をしようとしているのだ。
シール・エミコさんは、オーストラリアをバイクで旅行中、自転車で世界一周を企んでいたスティーブ・シールさんと出会い、一緒に自転車旅を始めた。11年目の2000年、タリム盆地からクンジュラプ峠を越えてパキスタンに入ったときにがんを患っていることがわかり、イスラマバードで旅を中断して急遽帰国した。半年間の入院とその後の療養生活。自然たっぷりの奈良の農家に住むようになって、めきめきと健康を回復。イベントに現れたのはその頃だったけれど、その後、奇跡のように再び自転車旅を再開できるまでになった。
2004年にイスラマバードからスティーブと二人で旅を再開。まずはパキスタンからインド、ネパール。いったん帰国して体調を整え、続いてネパールからチベット、中国、ラオス、タイと、少しずつ旅を続けた。今年2月には一歩も歩けないほど猛烈な砂塵の中、チベット高原を走り抜けた話を聞かせてくれた。つらかった高原からメコン川に沿って熱帯の国へ走り下ったことを話す笑顔から、もうがんが完治したのではないかと私は見てとった。
「残念なお知らせをしなくてはなりません。がんが再発しました。今後のことは主治医とよく話し合っていきます」‥‥。こんなメイルが転送されてきたときには、私もぶん殴られたように思った。またすぐ入院するという。
その後、奈良の家を訪ねたやまべくんによると、旅の続きに向けて間もなく農家を引き払うことにしていたから、当分入院するとなると引っ越し先も考えなくてはならず、亭主のスティーブはてんてこ舞いだそうだ。
そんなに簡単に治る病気ではないと、誰もが知っている。だからこそ、旅を続けることに意欲を燃やすエミコさんには誰もが励まされた。今度は自分が彼女を励ます番だと思う。
彼女の旅をずっと支援してきたモンベルが、「シール・エミコ支援基金」を立ち上げ、支援金と応援メッセージの受付を始めた。やまべくんは千羽鶴を折るのだという。直接はカンパを送ったり、千羽鶴で励ましたりすることしかできないけれど、もらった勇気を生かして、日々をきちんと生きることが、何よりも彼女を元気づけることになるのだと思う。
エミちゃん、がんばって!
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Festival Banned, Troops Muster
久々にRFA英語版より。「競馬フェスティバルが中止に。部隊が招集される」という記事。
【インド・ダラムサラ】四川省のチベット自治県当局は、保安部隊を強化し、昨年の抗議行動の原因になったとされる毎年恒例の競馬フェスティバルを中止した。地元民と当地の亡命チベット人が伝えた。
「リタンには大きな部隊が駐屯しています。彼らは派手な射爆訓練と軍事演習とで地元のチベット人を威圧します」と地元のチベット人は伝える。
「リタンでは、弾薬の爆発や発射の音がやかましく聞こえます」。彼はそう言い、騒音で鳥が近寄らなくなったため、「鳥葬」が行えなくなったと付け加えた。
「射爆訓練と爆発音が相当激しくて、この近辺ではまったく鳥を見かけることがありません。」
リタン(理塘)出身の複数の亡命チベット人も、町や寺院の周辺で部隊が強化していることを確認している。
いまはインドに住むリタン出身のAmdruk Tsetenは、「故郷にはほんの数回しか連絡を取っていない。きょう連絡が取れたけれど、7月5日から中国の武警は他のところにも配備されるらしい」と話す。
「この3日間、誰もリタンの町や寺院に言ってはいけないと警告されたらしい。地元当局は、それに従わない者を武警が射殺してよいと許可を出していると警告している」。ニャクチュカ(雅江)を含む近隣の地域に住むチベット人についても、リタンに行くのが禁止されているという。
「今年の『リタン国際競馬フェスティバル』も開催が禁止されてしまった。その地域に派遣部隊が追加され、それを隠すために多くの中国人兵士がチベットの民族衣装を着ている」。
リタンはチベット人、とりわけ遊牧民にとって注目を集める町である。昨年の8月中旬に行われた競馬フェスティバルでは大きな抗議行動が起き、中国統治下の歴史でいつもこの町は政府を苛立たせている。
昨年の8月1日、Yonruの遊牧民、Ronggyal Adrakがダライ・ラマへの支持を群衆に呼びかけたために逮捕された後から、にらみ合いは始まった。 後に「国家反逆罪」で起訴されたRonggyal Adrakの釈放と、ダライ・ラマの法話を受けることを含んだ宗教的自由、尊敬されるチベット僧侶、テンジン・デレク・リンポチェの解放と、遊牧民は3つの要求を出した。
当局のチベット人官僚がその要求に応じる構えを見せたため、要求が叶えられないならばいつでも抗議を再開すると誓って、彼らは抗議活動を中止したが、当局は即座に「愛国的再教育」キャンペーンを再開し、要求に応じたチベット人官僚をこの地方から左遷した。
いまは南インドのデプン寺にいるリタン出身の僧侶、テンジン・ドルジェは、昨年と同様の事件が今年も起きることを恐れて、そのような禁止措置がとられたのではないかという。
「今年、中国当局は、競馬フェスティバルを主催しないように地元民に求めました。リタンのチベット人は中国部隊が強化されているのを見ています。 部隊はリタンの異なる地域に配備されています。ニャクチュカのテンジン・デレク・リンポチェの修道院の近くには、600人以上の中国人兵士からなる派遣隊が配備されています。修道院から駐屯地まで2マイルも離れていません」。
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Palden Gyatso
アムネスティ・インターナショナル日本によると、アムネスティが報告書を発表した翌日の6月20日、チベットでの3月の抗議活動に参加して拘束された1157人の釈放が中国メディアによって伝えられたという。しかし、目撃者の証言によれば、解放された人々の中には廃人同様になってしまった人たちがいたそうだ。
5/4に書いたように、悲しいことに拘束された人たちには、拷問の末、致命傷を負ったり、精神に異常をきたしたりすると釈放されることがあるようだ。そんな状態で解放されても家族はなす術もない。北京五輪の聖火は本当に血塗られている。
28歳で投獄され、33年間も獄中でその拷問に耐え、脱出して亡命したパルデン・ギャツォさんが日本に来日する。
決して目を背けてはいけない現実を、パルデンさんは語ってくれるはずだ。
■□■チベット僧元「良心の囚人」パルデン・ギャツォ講演会■□■
■□■□ ドキュメンタリー映画「雪の下の炎」抜粋試写 ■□■□
チベット僧パルデン・ギャツォは28歳のときに中国共産党軍のチベット侵略を
抗議した「罪」で逮捕され、その後33年間、数々の牢獄や強制労働所で過ごしました。
肉体的、精神的拷問、飢餓のなか、激しい労働をしながら自分の国家や文化が破壊され、
家族や友人が次々と行方不明になり、同胞たちが無実の罪で逮捕され、次々と処刑
されていくのを見てきました。想像を絶する苦境を生き延びながらも、彼はいまでも
不屈の精神と魂の炎を絶やしません。
今年の3月のチベット騒乱を受けて、今数千人のチベット人たちが拘束されました。
そんななか、北京オリンピック開催を目前に、パルデン・ギャツォ氏が日本に来日することに
なりました。彼の牢獄での体験を聞くことは、現在拘束されている数千人がどのような
悲惨な状況にあるかを知ることです。
また、NY在住のドキュメンタリー作家、楽真琴(ささ・まこと)の監督した、パルデン・
ギャツォの人生を描いた最新のドキュメンタリー映画「雪の下の炎」からの抜粋を、
日本語字幕つきでご覧いただきます。33年もの拷問に耐えたパルデンの強靭な精神力と
深い信仰心にふれることで、貴方の魂に新たな氣つきが生まれ、世界平和への
勇気が溢れ出ることをお祈りします。 ---------- 感謝合掌 龍村和子
【日時】 7月21日(月・祝/海の日)開場13:30 開演 14:00〜16:00
【会場】 四谷区民ホール
新宿区内藤町87番地 四谷区民センター9F TEL:03-3351-2118
【参加申込方法】 ※全席指定席となります。
メールまたはFAXにて「パルデン・ギャツオ講演イベント実行委員会
事務局」までお申し込みの上、下記の振込口座にお振込みをお願いいたします。
Eメールアドレスは、このイベント専用となります。
メールでお申し込みの際は、件名欄には申込者のお名前のみご記入ください。
*ご入金を確認後、メールまたはFAXにて、指定席番号をお知らせいたします。
当日は、事務局からお送りしたメールまたはFAXを必ずご持参ください。
受付にて確認させていただきます。
(前売) 2,000円
(当日) 2,700円(お席が残った場合のみ当日券を販売いたします)
(振込先) 郵便振替:口座番号:00150-2-569721
口座名:ガイアシンフォニー
*通信欄に「パルデン講演会参加希望」とご記入ください。
(前売振込締切日) 7月17日
■7月16日以降にお振込される方へのお願い■
事前の入金確認が間に合わない場合がありますので、恐れ入りますが、
振り込みの控えを申込者のご連絡先を添えて、FAXにて
事務局にお送りください。指定席番号をお知らせいたします。
【主催】 NPO法人ガイアホリスティック
【申込・問合せ】 パルデン・ギャツォ講演イベント会実行委員会事務局
■メール:yukinoshita@live.jp
■ファックス:03-5368-5737
■電話:03-6677-1137(平日10:00〜18:00)
*この講演会は、チベット支援有志のボランティアにて運営されています。
*お問い合わせはなるべくメールかFAXにてお願いいたします。
*未就学児のご入場はご遠慮ください。
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The Sea Ends, The Land Begin
終電で帰った翌日の朝5時。始発快速成田空港行きで成田まで行き、銚子行きに乗り換え。地元の少年野球チームがどっと乗り込んでくる。鹿島線は利根川と潮来の水郷地帯、北浦を次々と高架橋で渡る景色のよい電車。空は晴れて、水面は明るい。
駅前広場には東京行きの高速バスを待つ人の列ができていた。乗り換えが必要な電車よりも便利なのだろう。運んできたMTBを組み立て、鹿島神宮駅を8時ちょうどに出発。その神宮の参道まで坂を上がる。門前の店はまだ開いていない。すれ違う参拝客に、おはようございます、と声をかけられて私も返答する。
境内は車輛進入禁止と書かれているので、参道と並行して南側に延びる防火道路を行く。とは言え、こちらも境内の森の中の砂利道だ。フィトンチッドたっぷりのダートに嬉しくなる。走って行くとちょうど本堂の裏手に出たので、参拝する。装束に身を包んだ若い男女がほうきや雑巾を手に朝の掃除をしているところ。
国道を横切って下津海岸へ坂を下って行く。海岸の砂丘を越えると、太平洋に出た。サーファーが朝練中。シーズンへ向けて、海の家を造っているところ。堤防が南へ続いていたので、釣り人をよけながらそれに沿って走って行ったら行き止まりになってしまった。さっそくだが、ハマヒルガオの咲く砂浜を自転車を押して行く。こんなことで時間をロスしていては、と反省して、県道255号に戻った。
そのまままっすぐ行くと行き止まりになってしまうので、粟生の交差点で内陸へ直角に曲がる。角に大きな看板のある鹿島アントラーズの事務所。選手専用と書かれた駐車場が見える。
鹿島港はもともと海岸と原野だったのを巨大な掘割を掘って港にしたのではなかったっけ。臨港道路は平坦ではあるものの単調で、しゃかりきになってペダルを踏んでもあまり進んだように思えない。電気工事のために歩道が掘り返されて、ガードマンの誘導で迂回せねばならないのが、かえってその単調さを救ってくれる。
カンカン照りになってきた。鹿島神宮駅から銚子まで30キロ、2時間と踏んでいたが、既に20キロ以上走って、地図ではまだ半分も行っていない。もう10時になろうとするところ。残り距離はたぶんあと20キロ、お昼前には銚子に着くだろうか。
DNC、花王の工場の前を過ぎると、鹿島港の南埠頭が間近になった。ようやく港に横付けされた船が眺められる。埠頭には、エメラルドグリーンのきらきら光る小山がいくつも築かれていて、興味をそそる。
3度目の踏切でまた貨物線を横切り、まっすぐ海岸へ向かう県道に合流。このあたりはやはりガラス工場が多いようだ。
海岸の手前に運動公園と墓地があって、一休み。
海岸は高い堤防で仕切られ、その向こうには釣り人が竿を出している。まっすぐに南へ続く堤防。尽きるまで2キロ以上あるらしいのだが、堤防にペンキで描かれた絵を眺めながら走れるのは、案外楽しい。
堤防が尽きた先に、日川浜のビーチ。サーファーが波間に漂っているのが見える。日川浜からは防砂林に護られた、かろうじてセンターラインがある海岸沿いの舗装路をひた走る。
道路と海岸とのあいだに、風力発電の風車が点在する。ところどころわずかなカーブとアップダウンがあって、先を走る自転車の緑色のパーカーが見え隠れしている。ときどきクルマに追い抜かれる。暑いのにランニングをしている人がいる。オーストラリアの砂漠の中を走っている気分になる。
緑のパーカーを追うことだけを考えて、あまり周りを観察せずに、ひたすらペダルを漕ぐ。どうせ海岸は見えないのだ。地名表示はなく、また地図にも大ざっぱな地名しか載っていないので、ここがどこだかわからない。緑のパーカーが道を逸れたと思ったら、久々に商店と自販機があって、そこで飲み物を買っているらしかった。その間に追い抜いたが、「この先通行不能」の標識に考え込んでいるあいだに抜き返された。
「この先市道、民有地のため通行不能」これはいったいどういうことなのか。途中にあるラブホテルと、その先にあるらしいシーサイドキャンプ場へは通り抜けが可能、と書かれている。なぜ通行不能なのか気になって、直進してみる。
2キロも走ると、海際に展望デッキが見えてきた。デッキに上がって通行止め方面を眺めると、この先、幾重にもバリケードが続く異様な光景。まるで国境地帯のようだ。さすがに引き返すことにした。
海沿いの道をあきらめて、県道をたどる。工業地帯の県道とは全然違う、センターラインのない細い道。でも交通量は結構あるので、少し怖い。
舎利のあたりではお寺と幼稚園と、閉鎖された小さなガソリンスタンドと雑貨屋がいい雰囲気。
県道は利根川と鹿島灘に挟まれた半島を背骨のように貫いているが、やがて学校の近くで交差点に突き当たって終わった。11:30すぎ。橋を渡れば銚子市内だが、観光向けじゃない漁師料理が食べられるんじゃないかという期待で、波崎海水浴場、新港を回ってみるが、まったくごはんが食べられそうな店はひとつもなかった。岬の突端に近い公園(対岸に銚子の町が一望できる)で残っていた麦茶を飲み干し、町中を銚子大橋に戻った。
鹿島からここまでの村々に比べれば、銚子は大都会だ。コンビニ、ファーストフード、寿司、ラーメン。目移りしながら、東へ走る。町の中は迷う。ポートタワーに向かってまっすぐ走って行ったら、坂を上がり始めたので、これはいけないと路地に入ったら、迷った。こんな路地にも人々の生活が満ちているのに感動を覚えた。海の匂いを便りに利根川沿いの岸壁に走り出た。
川口を回ると、再びポートタワーが見えてきた。さすがにおなかがへったところに、「各種定食」の看板。ふらふらと入った食堂は、「ゆうなぎ」という船員組合食堂だった。刺身定食、まぐろ定食はあるが、看板はロースかつ定食らしい。船員は魚よりも肉がお好みのようだ。つみれ汁があるというので、それをつけてもらい、ロースかつを頬張った。スタートから55キロ。見積もりのほぼ2倍を走っている。
海鹿島を沖合に見て、美しい弓なりの君ヶ浜。この「大都会」のすぐ近くにこんなワイルドな自然が残っていることに、また感嘆する。
坂を上がり、犬吠崎。「ユーラシア大陸の東、銚子市と、はるか西方ポルトガル共和国シントラ市はほぼ同緯度に位置し、それぞれ、海終わり、陸始まる犬吠埼、陸終わり、海始まるロカ岬の記念碑があります」。ポルトガルのシントラ市との友好記念碑が立っていて、この東端からロカ岬までの距離を思ったら思わず涙が出てきた。
外川は初めて訪れるが、漁師町の丘の上の街角に現れた、トラムの終点みたいな駅だった。メルボルンのグレネルグを思い出した。駅の外では、カップルのサイクリストが高そうなロードバイクを輪行のために分解していた。
急坂を漁港近くまで降りて、県道を東へ。町中を過ぎるとだんだん寂しくなり、山の中に入って行くので不安になるが、そのまま行くと銚子道路に出ることができた。
いまは無料化されて、銚子道路とは言わないらしい。おかげで自転車でも走れる。高架橋で町の上をひとまたぎ。海岸沿いのほぼ直線路だが、山を切り開いているのでアップダウンが結構ある。おまけに気温はうなぎ上り(真夏だったら死んでしまう)。汗をかきながら坂を上っていると、後ろから暴走族が追い抜いていった。気を取られていたら、ヘビの死骸を轢きそうになって、あわててよけたら、なんとヘビがよけてくれた。死骸じゃなかった‥‥。小さいやつだったけど。
銚子市から飯岡に入るあたりは小さな峠を越える。道路は狭く、交通量が多いので、危険を覚える。坂を下って、豊岡小学校のある丘に上がると、その先にもうひとつ峠があった。知らなかった。
刑部岬入り口をスルーして、飯岡の町中へ。漁港では散歩の道順を訪ねている老夫婦。その先に見覚えのある波止場の公園。15時すぎ。ここからが九十九里海岸の始まりだ。天気が怪しくなってきたが、行けるところまでとにかく走ろう。
飯岡から八日市場の新川河口までは飯岡九十九里自転車道が続いている。海岸沿いにしては砂に埋もれていることも少ない、いままで一二を争う快適な自転車道だ。海辺にはパラグライダーが飛んでいて、ときどき走っている私と並んで飛んでくれる。
新川大橋からは県道をたどる。トリップメーターは朝から90キロ強。大布川を渡り、「成田山不動尊上陸記念碑」の近くから、県道より1本海寄りの道に入る。こちらは民家やコテージが並ぶ生活道路で、クルマが少ないので楽だが、子供たちがキャッチボールやっているのに気をつけねばならない。
日焼けしたのか腕がチクチクして、一瞬虫に刺されたような感覚になる。それが気になってしょうがない。気を取られた隙に、メーターが100キロを超えた。バンザイ!
川下、殿下、中下と蓮沼海浜公園の近くを過ぎ、木戸川を渡ってまた県道に並行する裏道に入る。本須賀海水浴場入り口の信号から、その海水浴場へ。どこもそうだったが、ここも海の家を設営しているところだった。夕方のビーチはあまり人気がない。「最近県外ナンバーのクルマが多い」と通りがかりの初老の男から声をかけられる。ナンバーはついていないが、私も県外からなので苦笑するしかない。
海岸から成東駅まではバス路線もあったが、次のバスまで1時間以上あったので走って行くことにした。9キロ近くあった。本日走行距離121キロ。ちょうどいい夕暮れになった。
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Love from Around the World
Phayul経由のAP通信によれば、北京オリンピックの聖火リレーに対抗して3月10日にギリシャを出発した「自由の聖火リレー」が、21人のスタッフによって台湾の最高峰、玉山(3,950メートル)への登頂を果たした。
きょうはダライ・ラマ法王の誕生日。例年と違って今年は静かな催しが多いが、その中でもこの登頂は花を添えた。
台北にもダライ・ラマ法王事務所があり、日本と同様、チベット支援のNGOが活動しているようだ。それを紹介した記事「難民生活で海外からの援助が大きな役割」が英字紙のTaipei Timesに掲載された。
難民として生きることには困難が伴う。が、世界中からの「愛」がチベット人難民の暮らしを救っている。この半世紀近く、医療から農業支援、子供の保護にいたるまで、チベット難民の暮らしには外国からの援助が大きな役割を果たしている。台湾もその援助国に他ならない。
インド・バイラクッペのチベット人地区にあるツォ・ジェ・カンサル病院に足を踏み入れると、「愛情とケアの台湾委員会より、チベット中央政府健康保健省によって」と書かれた救急車が停まっていた。
唯一の常勤医師であるパクモ・ツォは、台湾チベット交流協会の代表団を出迎え、カタを奉じて敬意を表した。代表団は、使い捨ての医療用品が入った箱を手渡した。
「いままでに何度かここを訪ね、そのたびにこうして医療用品を渡しています」と協会事務総長の翁仕杰は話す。前回、昨年の訪問で、翁は医療用品よりも大きなものを手みやげにした。交流協会と台湾国際協力開発機構により寄付された病院の新館が竣工したのだ。
「台湾からの『愛』:入院患者棟と眼科手術室、講義室、医局は台湾国際協力開発機構と台湾チベット交流協会の寄付で作られた」という石のプレートが新館の玄関壁に埋め込まれている。「什器と設備は、ラファエラ・フランス・チオーナ医師とイタリアの友人たちによって寄贈された」。
「チベット難民に対する医療援助、農業支援を2004年から行っています」と翁は話す。「最初の2年間では、南インドのカルナタカ州で、外科医に歯科と小児科のトレーニングを行いました」。翁によると、カルナタカ州を選んだのは、バイラクッペを含む5つのチベット人地区があり、チベット難民の約40%がそこに住んでいるからだという。
バイラクッペから離れ、ダラムサラの2000人以上の子供たちも世界中からの援助で暮らしている。「いまは2069人がここで暮らしています。チベット子ども村(TCV)のディレクター、プンツォク・ナムギャルは話す。「ほとんどの子供たちがチベットから脱出してきた子です。ごくわずかですが、チベット難民コミュニティの中で何らかの事情で親が養育できなくなった子供たちもいます」。
TCVは、1959年に中国政府に対する大規模な蜂起が起き、難民の子供たちを保護する必要が生じたことから、その翌年に設立された。いまでは、事情で中国を離れられない両親が、自由な環境で子供たちに成長してほしいと、ヒマラヤを越えて送るほどになっている。
ダラムサラのTCVに加え、インド全土で他に4ヵ所のTCVと、いくつもの支所が開設されている。全寮制学校が7ヵ所と通学形の学校が6ヵ所、保育園9ヵ所、音楽学校が4ヵ所、ユースホステル3ヵ所、老人ホーム3ヵ所である。TCVは大学を設立する計画も立てている。
これらの運営について、ナムギャル氏は海外の援助団体や寄付をしている個人に感謝している。「子供をひとり受け入れる際、私たちは里親を捜します。建物はすべて海外の団体の寄付によるものです。図書館は台湾の寄付で作られました」と彼は、運動場の向こうの黄色い建物を指差した。「図書館の建設にあたり、10万ドルの寄付を台湾からいただきました」と彼は言うが、それらの寄付が台北のダライ・ラマ法王事務所を経由してきたために、個々の人々の名前はわからない、と付け加えた。
チベットを脱出する子供たちと言えば映画「ヒマラヤを越える子供たち」によく描かれており、その上映会もあちこちで行われている。きょうも大田区大森の「エセナおおた」で小さな上映会が開かれた。こうした活動を通じて、台湾だけでなく、世界中からたくさんの「愛」が届いているはずだ。
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Demonstrations in Kardze County
カンゼでのデモ、「チベットNOW@ルンタ」で連帯委員会のリリースから既報だが、TCHRDがようやく確認した模様。
中国政府が亡命政府との交渉で時間稼ぎしている間にも、チベットでは不当な逮捕劇が続いている。
TCHRDが確認した情報によると、四川省カンゼ自治県のカンゼで地元チベット人グループが、中国当局によって激しく殴られた上に逮捕される事件が起きている。
6月21日、カンゼ自治県カンゼのダド郷カシュル村のダグというチベット人青年が、カンゼの市場に入ったところを武警に拘束された。地元の武警7人が取り押さえるまで、彼はチベットの自由を求め続けたという。頭には「ブー・ランゼン(チベットに自由を)」と書かれた鉢巻きを巻き、両頬にチベット国旗を描いていた。
6月22日、11時(北京時間)すぎ、カンマル僧院の24歳の僧侶、ツェリン・プンツォクと36歳の老僧、タシ・シェーラブはカンゼにて平和的なデモを行った。
同じ日の午後の13時すぎには、やはりカンマル僧院の37歳の老僧、セルガと27歳の僧侶、イェシ・ダルグェがチベットの自由を求めるパンフレットを配りながら、ダライ・ラマの長寿とチベットへの帰還を祈った。
同じ日の14〜15時にはシリダ村の男が率いて、10人以上の地元チベット人が同じ場所でデモを行った。
これら平和的な抗議を行った人々は、めった打ちにされた上で中国武警により逮捕された。
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Rain Disaster
新華網より、「チベットでの大雨で洪水災害」。世界の尾根であるチベットでの異常気象は、もっと注目されていいと思う。
【ラサ7月3日】チベット自治区気象台によると、6月来、チベットには強い雨が降り、洪水と冠水など局地的な災害の発生を招いている。土石流など地形的な災害も起きている。これらの災害により概算では数百万元の損害が出ているが、死傷者は確認されていない。
気象台によれば、6月中旬以来、日喀則(シガツェ)地区昂仁(ガムリン)県多白、ラサ市曲水(チュシュル)県才納、日喀則地区昂仁県上下嗄鎮、日喀則地区聶拉木(ニュラム)県樟木(ジャンムー)、林芝地区八一鎮で相次いで洪水災害が発生している。統計ではそれらの災害で65.43ヘクタールの耕地が被災、1ヵ所で鋼製橋が流出、樟木の古い水力発電所施設が全壊し、直接の経済損失は約200万元に及ぶ。
チベット自治区水害防災指揮事務所の子小杰主任によれば、地球温暖化の影響を受けて極端な天気になる頻度が高くなってきており、いままでと比較してチベットでは増水期が早まっており、降水量が極めて多くなっている。チベットでは春から夏にかけて旱魃が起きることが多いが、今年はそれだけでなく局地的な洪水も発生している。
大雨による局地的な洪水と土石流の災害に対して、防災工事に着手したり、治水工事に対して3000万元以上の予算を投じるなど、チベット自治区は近く一連の対策を行う予定。
最近の中国語の記事では、「ダライ・ラマのインド流『文化自治』」に興味が。
乱暴に言えば、亡命政府には外交や警察、裁判などをインド政府に依存していて、過去50年、文化の継承や医療ぐらいしか経験がない、ダライ・ラマがチベットに戻ったとしても国家としてやっていけるわけがないので、中国と協力すべきだ、というお話。中国人の筆者が「ダライ・ラマがチベットに戻ったとしても」という仮定をしているのに刮目した。
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