A Climber with Humanity and Ethics
みんなその時は極限状態だった。
この二日間何も食べておらず、高地の登りは胸を裂き何も考えられなかった。
ただそのまま一歩一歩前に進んだ。
多くのもの者たちはその時逃げるために身軽になろうと背負っていたリュックや上着を脱ぎ棄てた。自分のそうした。
そのうちグループの誰かが
「撃つなら打て!もう何時死んでもいいんだ!もう何も怖くない。撃つなら打て!」と言った。
グループの先頭には尼僧たちが数人いた。
自分たちは数人でその後ろ5,60mのところを歩いていた。
突然バンバンという銃声が聞こえたと同時に頭の上をヒューヒューと銃弾が走る音が聞こえた。
前を歩いていた尼僧のグループのうちの一人に弾が当ったらしく、「キャー!」という叫び声が聞こえた。
私は全身鳥肌が立ち、怖くて身体が震えた。
他の尼僧が倒れた尼僧を抱えたが、しばらくして死んだと思ったのか、皆そのまま歩きはじめた。
中国兵は下に降りて来ているようだった。
また後ろから来ていた男の子が足を撃たれ、倒れた。
中原一博さんのダラムサラリポート、チベットNOW@ルンタに6月に掲載されたチャムド出身の18歳、ガンツォの証言を原文のまま引用した。
ナンパ・ラは、8201メートルの高峰、チョー・オユーの肩にある峠で、それでも標高は5710メートルもあるという。昔からキャラバンの通商路としてよく使われるルートで、チョー・オユー登攀のABCからもそのキャラバンがたびたび目撃されていた。
ちょうど2年前、2006年9月30日早朝、そのABCにいたクライマーたちは、一列になって峠を目指すチベット人の一団を見つけた。約70人のチベット人がネパール側へ向かっていた。ガンツォはその中にいたらしい。
突然銃声がして、それが何度も続いた。標高5000メートルあたりで、一団はさらに峠へ駆け上がっていった。峠には越境を阻止しようとする中国兵が銃を構えていた。双眼鏡越しに、2人が倒れるのが見えた。
亡くなったのは17歳の尼僧だった。その他に20歳の男性が足に銃創を負った。73人のうち、41人が国境を越えてカトマンズに着いたが、10人の子供を含む32人が中国兵に連れ戻され、逮捕、投獄された。SFTなど支援団体のキャンペーンの結果、翌年2月に32人は解放され、ダラムサラへ亡命した。
このときは多数の登山者が銃撃を目撃し、スロヴェニア人のクライマー、パヴレ・コジェクが帰国後にその写真を公開したことで世界中にそれが伝わった。たまたま彼は手元に望遠レンズと手ぶれ防止機能付きのカメラを持っていた。
「銃声がしたとき、ほとんどのクライマーはまだテントの中にいた。ベースキャンプの中でも下のほうにいた人たちしか、何が起きているのかわからなかったと思う」。
「彼らはまるでネズミやウサギが狩られるように撃たれた」。その下のほうにいたルーマニア人のセルジュ・マテイはそう語っている。彼はビデオを撮影し、さらにチベット人のひとりを匿ったという。
中国政府は、一団を密輸団だとし、兵士たちは密輸団の攻撃から身を守るために銃を使ったと反論した。
各地で上映されている映画「ヒマラヤを越える子供たち」のように、チベットを離れてインドで学ぶ子供たちは多いし、それを阻止しようとする銃撃事件も後を絶たないようだ。いまやチベット全土が監獄になってしまい、国境の兵士たちはまるで彼らが脱獄するのを阻止しようとしているようだ。
パヴレ・コジェクはこの2006年のチョー・オユー登攀で新たなソロルートを拓き、世界で優れたクライミング成果に贈られるPiolet d’Orの「年間最優秀クライマー」を受賞した。彼は1989年にシシャ・パンマ南面を新ルートで登ったほか、97年にはスロベニア人として初めてエベレストに登頂している。しかも無酸素で。それが二度とチベットに行けなくなるかもしれない危険を冒して、中国当局を「告発」した。
「もう中国には入れないだろうね。入れたとしても、いつ追放されるかビクビクすると思う。自分が思うにはヒューマニティと倫理を欠いた登山は、登山とは言えない。ただ登頂するだけじゃだめなんだ」。
類い稀な素質を持ったクライマーというだけでない。本当に勇敢な男だったのだ。
そのパヴレ・コジェクの悲報が届いたのは先月のこと。同じスロベニア人クライマーと共にムスターグタワー北東壁の2200メートルにも及ぶ新ルートに挑んでいた彼は、8月25日、強風のために登頂を断念して撤退する途中で2000メートルもの高さを滑落して亡くなった。
さきほど紹介した2007年のインタビューでは、彼が写したナンパ・ラの写真を元に、SFTをはじめ様々なチベット支援団体がキャンペーンを行ったことについて彼はこう語っている。中国政府はこれで変わるだろうか?
「そう信じたい。こんな事件が二度と起こらないと思うほど自分は楽天的ではないけれど、中国当局は少なくとも今後の行動について考えるようになると思うよ。国境を越える人たちを殺すなんて、とても許されないから」。
どうしたらヒマラヤに挑むクライマーやチベットを訪ねる旅人たちに、彼の精神を受け継いでもらうことができるだろうか。
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Milk Powder Sickens Adult Tibetans
少し前のRFAの記事。いまや世界中で問題になっているメラミン樹脂入り脱脂粉乳は、チベットにも影響をもたらしている。
汚染された乳製品原料のために数万人の乳児に影響を与えた問題で、チベットでは同じ脱脂粉乳を使ったお茶を飲んだ大人たちが医師の診察を受けているという。チベット自治区政府職員が語った。
「甘いミルクティーを飲んだ結果、腎臓の機能障害が疑われています。ラサの茶店のほとんどは『三鹿』の粉ミルクを使っているからです」。
ニュージーランド企業との合弁で作られた乳製品メーカーで作られたベビーミルクから工業用メラミン樹脂の混入が見つかったことが問題になっていることから、成人に対しても検診が行われることになった。
「ほとんどの粉ミルクは青海省、甘粛省の中小工場で製造されており、これらの工場も調査されています」。
職員によれば、シガツェ、カム、ロカ、ニンティのチベット自治区各地区で約100人の子供に腎機能障害の疑いがあるという。
「その数は毎日増えており、うち30例は重症です。以前からの摂取が影響していたものと思われます。ほとんどが4〜6歳の子供たちです」。
その年齢は、粉ミルクの品質問題が、今回中国全土にわたる被害者の親による集団訴訟などで明らかになった三鹿などによって行われる以前から起きていた可能性を示唆している。
ラサ市政府保健局によると、今週初めの段階で45人の乳児に腎機能障害が見つかり、うち12人は入院しているという。
「三鹿の粉ミルクの子供たちへの影響を調査しています。検診は9月18日から始まりました。いまのところ約1000人を検診しましたが、うち12人に影響が出ていました。胆石が見つかったのです」。ラサ市民病院の医師はこう話している。医師によれば、三鹿の粉ミルクの影響が出ているのは4、5歳の子供たちだという。
「検診は朝9時から夕方6時まで行われています。来院するのはほとんどがチベット人です。チベット人だけでなく、中国人も汚染された粉ミルクの影響を受けています。尿の減少や血尿が一般的な症状です」。
心配した親子が病院の中庭に列を作った、とラサ市民病院小児科のスタッフは話した。「汚染された粉ミルクの問題については、乳児についても検診を行っています。たくさんの子供たちが検診に来ます。列が中庭の延びたこともありました」。
ラサ在住の男性、ロナ・ニマの息子、タシ・ニマもそのひとりだ。
「尿に血が混じっているのを見つけたのは4月でした。7月になって腎機能障害とわかりました」。ロナ・ニマは、三鹿の粉ミルクを昨年息子が飲んでいたと言う。
タンパク質含有量を水増しするためにメラニンが添加されていた乳製品を摂取した5万人以上の乳児の問題は、国民的な怒りを買っている。
3月にこの問題が発覚した際、三鹿グループ首脳と地元政府高官の隠蔽を許したとして、この問題については国家品質管理局の局長が辞任する事態に発展している。
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Death of Kulakangri
EverrestNews.comによれば、この日登頂した日中ネパール友好中継隊は中国人4人、日本人5人、ネパール人(シェルパ)3人で、これで1953年のヒラリー卿とテンジン・シェルパ以来223人がエベレストに登頂した。余談だが、エベレストへの登頂者はその後加速度的に増え、集計されている2003年までで累計2249人、北京五輪の影響のあった今年だけでさえ290人以上が登頂しているという。
5人の日本人のうち、山田昇と三枝照雄はその翌年、マッキンリーで消息を絶った。残る隊員のひとり、中村進さんはその後、94年にクロスカントリースキーで南極点に到達し、78年の日本人初北極点到達と合わせ、日本人初の「三極点到達者」となった。
登山に留まらないユニークな活動を続ける中村さんは、冒頭に書いたように私にとっては地球の素晴らしさを映像で伝える日本には数少ない冒険的映像ディレクターであり、一時は本気で中村さんの後を追ってカメラを回せるようになろうと目指していたこともあったぐらいだ。
退職してからも郷里の群馬で活動を続けていると聞いたのが、まさかクーラカンリで雪崩にやられるとは。先週水曜日に悲報が伝えられたときには、本当に落ち込んだ。
クーラカンリ(庫拉崗日)登山の計画を調べれば調べるほど、それが無謀な登山だったとはとても思えない。縦走の計画だったが、そこまで至らない主峰ルート工作中の悲劇。それでもヒマラヤはやはり未知の世界なのだ。
同じチベットのチョー・オユーでも、10月4日に登頂したヨーロッパの登山隊が、7600メートル付近でここ数日の間に遭難したと思われる遺体を発見したと報告している。
一方、チベット地元メディアの「西蔵信息中心」は、羊八井登山センターからニエンチェン・タングラ山脈の西にある6206メートルの山まで「西蔵登山大会」が行われ、72人が参加して60人が登頂したという記事を掲載している。
チベット自治区体育局長の談話では、この大会の成功が中国登山界とチベット体育事業にとって重要な指標になるのだという。いままだクーラカンリで遭難者の収容作業に当たっている登山隊員がこれを読んだら、どう感じるだろうか。
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Quake Hits Damshung
チベット自治区地震局によれば、6日16時30分頃、ラサ市当雄(ダムシュン)県内でマグニチュード6.6クラスの地震が発生。震源地はラサから直線距離で82キロの格達郷付近で震源の深さは約8キロ。格達郷では100棟以上の家屋の倒壊や数名の死者が出ているが、交通や通信が途絶えており、解放軍が救援に向かっている。
ラサ市内では30秒にわたって強い揺れがあったが、ポタラ宮、大昭寺など有名な建築は被害を受けず、バルコルの様子もいつもと変わらないという。シガツェ、ロカなどで揺れが感じられた。
当雄県には青蔵鉄道が通っているが、鉄道施設は無事で、地震発生時に羊八井一号トンネルを通過だった列車も平常通り運行された。
さきほど0時すぎに、中国地震局はこの震災を「国家地震応急対応法」での3級震災と認定し、迅速な救援と被災状況の調査を各関係部門に要請した。
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re: Quake Hits Damshung
ダムシュン地震続報。
6:37
被災状況の把握はまだ困難な状況。この地区では地震がたびたび発生している。
家屋の倒壊により、住民や家畜が下敷きになっている。土石流、山崩れ、地割れ、道路の損壊、液状化現象が見られる。
この地震により9人が死亡、11人が重傷。8人の軽傷が確認されている。合計127戸が倒壊し、890人が家を失った。一部の道路は波打っており、段差が50センチに達するところもある。
今回の地震はチベット東部と北部との構造分界線にあたるニエンチェン・タングラ断層(亜東−古露断層)が動いたものと見られる。この断層に沿っては1411年のマグニチュード8クラスの地震、1952年の7.5クラスの地震など、過去にも大きな地震が発生している。この断層は比較的新しいもので、活発に動いている。
11:49
新華社ラサ支局によると、郭鵬自治区党委員会副書記は、最も被害の激しい格達郷羊易村には899人が居住しているが、まだがれきの下敷きになっている村人も多く、正確な死傷者数がつかめていないと話した。救援活動が進められており、負傷者が続々と近隣やラサの病院に送られてきている。
郭鵬はまた、自治区党委員会として、自治区政府が解放軍、武装警察、消防、公安、衛生、交通、地質の専門家などから構成される救援隊600数人を6日22:30に派遣したことを明らかにした。
一方、地震発生後に通行止めになっていた道路は付近住民と救援隊により補修され、現在羊易村まで開通し、食品、飲用水、テントなどの被災者救済物資が運び込まれている。
11:51
7日7時現在、191戸が倒壊。うち171戸は羊易村。当雄県の他、尼木県続麦郷でも20戸が倒壊した。また余震は188回に及んでいる。
16:49
14:30までで余震は251回、最大でM5.2クラスだった。
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re2: Quake Hits Damshung
ダムシュン地震、本日の情報。地震による死者は9人だったが、ロカのナンカルツェ中学の生徒が避難中に急死した。
中国西蔵信息中心は、救援隊に続き、テントや食糧など救援物資が各地から大型トラックで勇ましく運ばれている写真、がれきの山から村人の家財道具を運び出す解放軍兵士の写真、郭鵬副書記が現地入りして被災者を励ます写真などで埋められていて、それ以外に被災者の情報は入ってこない。
そんな中で際立っていたのが、「時間こそ命、被災状況が求める」という中国国内の典型的ルポルタージュ。
10月6日16時30分。ラサ当雄(ダムシュン)。陽光が輝いていた。
突然大地が揺れた!山河が揺れている!家屋も揺さぶられている!
突如として地震が発生した。ニエンチェン・タングラを震撼させ、ダムシュンを揺るがし、すべての人が揺さぶられた。
地震!地震!!
時間が命だ。時間が希望をつなぐのだ。
翌7日の16時30分まで、あっという間の24時間が苦闘の第一章となった。砲声の聞こえない戦闘が被災地で始まっていた。それが命をめぐる死神との闘いであり、苦難に満ち、希望に満ちた闘いだった。16時30分。ラサ。
「部屋が揺れ始めたと思ったら、湯のみもガタガタ言い始めた」。
会議中だった自治区党委員会副書記、自治区常務副主席の郭鵬はすぐに気付いた。地震だ!
彼はすぐに携帯電話を取り、自治区地震局局長の朱茎の携帯に電話をかけた。つながらなかった。
またかけたが、つながらない。交換台を通したが、つながらないままだ。
本当に地震か? 震源地はどこだ? 規模は? 人的被害は出ているか?‥‥。
疑問と心配とでいっぱいになりながらも、郭鵬と自治区副主席の孟徳利が地震局に駆けつけた。
16時40分、震源は当雄県、ほぼマグニチュード6.6クラスの地震と判明した。
16時45分、地方出張中の自治区党委員会書記張慶黎と、自治区党委員会副書記、自治区主席の巴平から電話で地震関連の状況の確認があり、重要な指示が下った。地震災害救援に全力で当たり、人民群衆の生命や財産の損失を最小限に抑えよ、と。
時間こそ命だと、被災状況が求めているのだ。16時55分、郭鵬は地震局で緊急会議を行い、自ら指揮を取って2級非常態勢を開始した。
会議後、自治区党委員会常務委員でラサ市委員会書記の秦宣智は自治区、市幹部の関連部門から成る緊急作業チームを被災地に派遣、被災状況の把握と救援とが始まった。
19時頃、緊急作業チームは格達郷羊易村に着き、救援活動を始めた。まだ通信は途絶えており、司令部との連絡が取れない。が、作業チームは2時間ごとに1回報告を行い、救援作業を順調に進めた。ラサの司令部は、被災状況の報告を受けるたびに、刻々と対策を進めていった。
時間こそ命だと、被災状況が求めているのだ。自治区民政、衛生、水利、国土資源、財政などの部門もすぐに動きだし、それぞれに応急作業を行った。
自治区地震局は、すぐに国家地震局や周辺省・区の地震局と連絡を取り合い、余震の予測や監視、測定などを行って、災害救援に当たる人々にタイムリーで正確な情報を提供した。
ラサ市は積極的に各郷から情報収集し、被災状況の把握に努めた。
解放軍、武装警察、消防の部隊の将兵は直ちに出動し、被災地に急行した‥‥。
というような具合に、郭鵬副書記の指揮下、解放軍、武警、消防隊が次々と駆けつけ、救援物資が直ちに調達され、ラサ人民病院では医師がスタンバイするといったふうに、華々しい救援活動が描かれる。中島みゆきの歌が聞こえてくるのは気のせいか。全部は訳せないので、中略。
20時20分頃、深刻な被害を受けた羊易村で多くの家屋が倒壊、多数の生き埋めが出ていると情報が入った。
特別会議を開いていた自治区指導部は直ちにそれを中断して、救援態勢を手配した。
医療チームが被災地区に派遣された。救援物資も送られた。解放軍、武警、消防などの部隊も増強された。7日明け方、自治区副主席の孟徳利は夜を徹して被災地区に駆けつけた。
7日12時には700名以上の救援隊が被災地に到着、救援活動が順調に行われている。
10月7日午前、自治区財政は災害対策予算として1000万元を支出。民生部は480張りのテントと食料品など救援物資を被災地区に運び込んだ。被害が深刻な羊易村では19人が負傷していた。自治区指導部は19人をラサの大きな病院に送るよう指示し、受け入れた病院は受け入れ態勢に入った。
7日朝4時10分、19人は次々と病院に運び込まれた。郭鵬一行はチベット軍区総合病院とラサ市人民病院に駆けつけ、運び込まれた負傷者を見舞い、治療の状況を把握した。
4時30分までに、チベット軍区総合病院は羊易村から12人の負傷者を受けていれた。22歳の朗傑もその中にいた。朗傑は格達郷羊易村2組の村民で、地震発生直後、自宅が倒壊して下敷きになり、腰椎が損傷していた。
チベット軍区総合病院の入院病棟で、郭鵬は朗傑のベッドを訪れ、彼の手をとって、親切に彼の傷の程度を尋ねた。「どんな感じですか?痛いですか?」
まだ地震の悪夢から醒めない朗傑は、自治区要人が深夜に自分を見舞っているのにたいへん感激を受けた。「謝々、謝々。党と政府に感謝します!」
郭鵬は朗傑の自宅の状況を細かく尋ねた。災害はひどいか、家族に負傷者はいるか。自宅のことに話題が及ぶと、朗傑は肩を落とした。「自宅はなくなってしまいました。建物がなくなってしまったのです」。
これを聞いた郭鵬は一層朗傑を強く励まし、けがが早く良くなるように心がけ、党と政府を信じ、自宅が再建されるのを期待してほしいと伝えた。
「被災者救援のため、われわれは当雄県で『グリーンロード』を開通させる。武装警察、交通警察は24時間勤務し、必ず被災者を救援し、滞りなくラサへ運ぶ」。道路が開通し、道は開通して、救援隊や物資が一刻も早く到着するようにする。被災地区の負傷者をいち早く安全にラサへ運び、応急手当てをして救うことができる」と自治区高官は語った。
10月7日8時までに、自治区の各医療機関は負傷者25人を受け入れ、うち応急処置が必要な6人は分担態勢をとった。7日明け方の5時35分、郭鵬、王賓宣、白瑪赤林ら、病院を回っていた自治区指導部が事実上の司令部となった。郭鵬は被災者救援のため、衣服や食品などの輸送を手配するため電話をかけた。輸送チームのひとりが持って来た尼木県の地図を郭鵬はじっと見て、王賓宣、白瑪赤林らに言った。「尼木から羊易村に入る道を造れば、被災者救援がはかどるのではないか?」
「羊八井から羊易村への道は地震の被害が大きいため、別の道を開通させる必要が確かにあるでしょう」王賓宣はうなずいた。
「そうです。続万郷から羊易村へ近いです。ここに道を通せば、たくさんの命を救えるでしょう」白瑪赤林はできるだけ多くの車両がこの道を通ることを望んだ。
7日朝、郭鵬は一睡もせずに被災地区にかけつけた。
指導部礼賛の記事はまだ続き、最後はようやくこのように締めくくられている。
地震発生から24時間、1440分が経って、被災者は避難を終えて衣類や食糧を得て、とりあえず落ち着いた。自治区の交通、通信はすべて復旧した。
非情な災害の中にも、人の情けはある。救援はいまもまだ続けられ、党中央や国務院の配慮の下、自治区党委員会、自治区政府の強靭な指導者と自治区の関連部門の力が結集し、「砲煙なき戦争」に打ち勝って、地震の廃墟の上で再び生命の花が咲くことをわれわれは固く信じている。
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Airplane Crash In Lukla
Nepal Newsによれば、8日朝7時31分頃、カトマンズからルクラに向かっていたYeti Airlinesのツインオッター機がルクラのテンジン・ヒラリー空港で着陸に失敗し、乗客28人と乗員2人が亡くなった。パイロットひとりだけが生還したという。
乗客のうち12人はドイツ国籍、2人はオーストラリア人だったとYeti Airlinesは発表している。
機体は滑走路で炎上し、地元住民や警官らが2時間かけて消火した。
MountEverest.netによると、当時ルクラ一帯は霧に包まれていたという。消火活動には住民だけでなく、多くの旅行者や登山者も参加し、涙を浮かべていた、と豪メディアは伝えている。
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A Tibetan AIDS Activist Disappears
TCHRD(チベット人権民主センター)が、AIDS対策啓蒙活動を行っていたチベット人男性の失踪についてプレスリリースを出している。3月14日、ラサの自宅から連行されて以来、消息がつかめていないという。
TCHRDは、ワンドゥが置かれている状況について深く憂慮しており、彼の所在と状況を明らかにするよう中国政府に緊急に要求する。またUNWGEID(国連強制的ないし非自発的な失踪に関するワーキンググループ)に対し、彼の所在と状況について緊急に介入するよう要求する。
ワンドゥは、ラサ近郊のタクツェ(達孜)で生まれた40代前半の男性で、1989年3月のラサでの抗議活動に関って逮捕され、サンギィップ刑務所での「再教育労働」3年間の判決が下された。サンギィップでも抗議活動に関わってラサ中等裁判所の判決で刑期が4年間に延長され、残る刑期を悪名高いダプチ刑務所で過ごした。1995年に釈放後、ワンドゥは働きながらラサで英語を学んだ。
HIV/AIDSに関する啓蒙活動を行う外国NGOにその後ワンドゥは関わり、ラサ内外の様々な売春宿や近郊の郡、町の学校、聖なる都市に増えつつあるナイトクラブなどでもHIV/AIDSに関する説明を行ってきた。NGOはチベット語と中国語とでHIV/AIDS問題を訴える書籍やポスター、パンフレットなども作成して無料で配布し、チベットでも増えている死の病について啓蒙を行った。この試みは成功し、多くの学校や官公庁などで学生や職員、新入社員にレクチャーが行われた。自治区公安庁でも行われた。
今年のノーベル平和賞候補となった佳胡と同様、ワンドゥはチベットでのHIV/AIDSに対する理解のために、尊いボランティア活動の先頭に立っていた。3月14日以来拘束されている彼が再びHIV/AIDS問題を喚起し、ラサや近隣の町村に病が流行するのを防ぐことができるように、彼の早期解放を強く働きかけてもらうよう国際社会に求める。
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詳しい情報、ありがとうございます!
私の方でも、紹介させて頂きたいと思っています。