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A Political Prisoner

by Days posted at 2008-07-24 23:45 last modified 2008-07-25 01:52
雪の下の炎

1959年3月10日、デプン寺からラサ市内に産物を取りにいく用事があり、その途中、ノルブリンカで群衆が集まっているのに出くわしました。どうしてこんなことになっているのか聞くと、ダライ・ラマ法王が中国から映画を観るのを招待されていて、それは法王を連れ去るための陰謀のようなので、それを阻止するために集まっているという。それは危ないと自分も思ったので、私も群衆に加わりました。そこではみんなが法王に行かないでくれと言い、チベットはチベット人のもの、中国人は出て行けと叫んでいました。
そのデモに加わったという理由で私は逮捕されて監獄に入りました。28歳のときでした。それから何度も逮捕され、合わせて33年間を刑務所で過ごしました。1992年にダプチ刑務所から釈放されました。そのとき、61歳でした。解放されたのもアムネスティ・インターナショナルが1982年から運動してくれて、みんなが手紙を送ってくれたおかげ。

監獄の中での食事は、日に一度だけツァンパが少し。塩もなく、野菜もなかった。家族からの差し入れは禁止されていました。いろんな労働をさせられた。畑を耕すのに、牛の代わりにさせられたこともあった。食事をとっていなかったので、すぐ倒れてしまう状態でした。
その頃、監獄にいた70%は餓死で亡くなった。目につく木の葉などは全部食べていました。中国の監獄に連れて行かれた1500人は、戻って来たときには300人になっていました。外に出ることができるのは、食べ物を得るチャンスがあるからまだいいほうで、外にも出られないことがありました。そういうときには靴の皮をかじって、それでもそれがあるだけまだいいほうでした。
中国人から水を運ぶ仕事を与えられていたとき、背中に水を背負って運ぶのですが、食べていないので力が出ない。列のいちばん後ろにいたときに、命令した中国人が新聞紙の塊のようなものを落としてそれを拾えといった。中には食べ残しが入っていた。中国人のすべてが悪い訳ではなく、そうやって食べ物を与えてくれる中国人もいたのです。
監獄の仲間の話では、すぐ横にいた仲間がある日、水を恵んでくれと言いました。自分も喉が渇いてしかたない状態でした。頼むから水をくれ、水をくれを言われるので、自分の唾液を集めて、それを口移しで与えた。その人はすごく喜んで感謝してくれた。もしおまえが自由になったら仕事をしてくれ、この状況を知らせるような仕事をと言って、それからすぐに亡くなってしまいました。
そういう話を思い出しながら話すのはすごくつらいことで、そういう話は本にも書いたので、できればそれを読んでほしいのです。

尋問のときなど、床にガラスの破片や石等が敷いてあり、そこにそのまま膝をついて尋問を受けなければならないことがありました。腕は後ろ手に縛られており、手で支えるわけにもいかない。当然怪我をしました。尋問というよりは、チベットは中国の一部だと、認めさせるための拷問でした。私はチベットは独立国だと思っていたので、ずっと知らない知らないと繰り返した。中国は、チベットが中国の一部だと言わせたいわけです。
知らない知らないというと相手は怒り、両方の手と足を縛られて、天井の棒に紐をかけられ、吊り下げられる。ぶら下げたまま殴られる。殴られると怪我をする。怪我をしたところにとんがらしを塗られます。すごく痛む。吊り下げられた下で火を焚かれ、湯を沸かす。その湯をかけられる。
要するに遊び気分でやられている。中には年寄りの囚人もいて、吊り下げられたまま死んだ者もいます。怪我をするとひどい状態になりますが、治療を受けられるわけではなく、次の仕事に向かわなければいけないのです。
いちばんひどくて覚えているのは、1990年9月13日、ダプチで電気棒を口に突っ込まれ、歯がすべてなくなってしまったことです。おまえは独立がほしいのか、ほしいならこれをやると、電気棒を突っ込まれた。いまでも舌がひどく傷ついている。私だけではなく、本当にたくさんの人々がそういう目に遭った。いま世界でまだそういうことをしているのは中国ぐらいでしょう。

いまは少しずつ監獄の状況がよくなり、家族からの差し入れを受け入れるようになりました。だから、監獄で餓死するということはありません。
けれど、私が受けたような拷問は昔話ではありません。3月の騒乱以降、たくさんのチベット人が捕まっていますが、電気棒を使うような拷問はまだ行われているでしょう。中には何もされなかったという人もいるかもしれない。中国人の言う通りに白状したり、従ったりすれば何もされないでしょう。ですが、それに背けば、ひどいことをされるでしょう。

チベット人は平和を愛します。第二次大戦中も中立を守りました。広島に原爆が投下されたときには、たくさんの市民が犠牲になったと聞いて、みんなで祈りました。
そのチベットのために、いまはみなさんに協力してほしいのです。

先日、四谷で行われた映画『雪の下の炎』上映会と講演会に続き、今夜も東中野のポレポレ座でパルデン・ギャツォさんの講演があった。パルデンさんは、ときに悲しい目で、ときに冗談を交えながら、33年間の獄中生活と、子供の頃のチベットの話から世界情勢までを真剣に語ってくれた。
その中から一部を書き出してみたが、やはりこれは彼の著書『雪の下の炎』を読んでみなければ、始まらないように思う。が、98年に新潮社から出た単行本は既に絶版で、書店では手に入らない。「復刊ドットコム」でリクエスト投票が始まっているので、ぜひこれに投票をお願いしたいと思う。
そして大事なのは、パルデンさんが繰り返していたこと、彼の経験は決して特殊なことではなく、いまチベットに住むチベット人には誰にも起こりうることだということだ。この状況は見過ごすわけにはいかない。引き続き声をあげていかねばならない。

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Re:A Political Prisoner

Posted by ディディ at 2008-07-25 07:57

どの体験談も涙なしでは聞くことができないですね。
大切な人生の殆どを苦しみに費やすことになってしまったにもかかわらず、素敵な笑顔を持ち続け、中国人へ対しても慈悲の想いを持っていることは並大抵のことではないですね。
そんなパルデンさんが今ここにいらっしゃるということに感謝です!