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Uygur Attack and 6 Killed

by Days posted at 2008-09-01 09:45 last modified 2008-09-01 17:03

新華網は、カシュガルで27日、警官2名が襲撃に遭って死亡したと簡潔に伝えている。
新疆ウイグル自治区公安庁の話では、27日21:20頃、ペイズアワット(伽師)県キジルボイ(克孜勒博依)郷での事件を公安当局が捜査中、トウモロコシ畑の中に隠れていた「容疑者」数名が突然ナイフで襲撃し、公安1名と職員1名が死亡、5人が負傷した。
「自治区党委員会と人民政府はこの事件を非常に重視しており、事件の迅速な解決と容疑者の捜索を行っている」という。

一方、RFAによれば、死傷した警官らはウイグル人だったという。

目撃した職員によれば「6、7人が現れ、ナイフで彼らを襲った。2人が即死した。うちひとりは(ミシャ)村の公安長だった。他の4人は怪我をして逃げた」という。
ペイズアワット県政府は電話での問い合わせに対して、負傷者はナイフによる傷で入院し、彼ら全員が政府職員だと答えた。
ペイズアワット県公安次長のオマルジャンによれば、警官たち(全員ウイグル人)は以前起きた事件に関係する女性が畑に隠れているという情報を元に捜索していた。
「畑の中で襲撃を受けるとはまったく想定外でした。彼ら(警官たち)は武器を携帯していませんでした。いま500人もの武装部隊が一帯の家という家を捜索しています。もう9時間になりますが、いまのところ何も見つかっていません」。

8月にはイェンギサル(疏勒)県ヤマンヤ郷の検問所で3人が殺される事件が起きた。この「ヤマンヤ事件」の後、ウイグル人女性のアマングル(50)が逮捕された。オマルジャンの話では、27日は彼女の娘、アナグル(22)もこの事件に関っているとみて捜索していた。この事件では合わせて7人の容疑者が手配されている。
「ヤマンヤ事件の後、私たちは集会を開き、容疑者逮捕に協力を呼びかけました。報奨金も5万元用意しましたが、まだ誰からも情報がありません」とオマルジャンは言う。
襲撃に遭った公安職員は全員武器を携帯していなかった。職員によると、ウイグル人公安官は武器を持つことが一般的に禁止されているという。地元公安署で働く21人のうち20人はウイグル人で、漢族は1人だけだという。公安署には銃が2丁あるが、いずれも金庫に保管されている。

ミシャ村公安署の新署長マメット・アリによれば、負傷した職員は病院で回復しつつあるが、ひとりは指を2本切断したという。
「アナグルの8歳の息子、それから母親のアマングルを逮捕した。残るはアナグル本人。彼女は他の容疑者逮捕につながるキーパーソンなのです。だから彼女の息子を拘束しているのです」。
公安は聖職者で地域指導者のアブダル・シュクルの2人の息子も拘束しているという。シュクルの自宅は、襲撃のあったトウモロコシ畑に近く、シュクルも現在拘束されている。息子たちの年齢はわかっていない。
ミシャ村宣伝担当の職員によると、捜索はペイズアワット県、イェンギサル県、ユプハ(岳普湖)県全域で行われているという。
「公安や軍、政府職員、農民全員がカシュガル知事アクバル・ゴプールの指揮下で動いている。ミシャ村だけでも、500人の部隊、300人の武警、400人の政府職員と軍関係者を含む2000人が動員されているが、誰もまだ捕まっていない」。

この事件については「新silkroad?」でも翻訳されているほか、AFPでも伝えられている。
さらにAP通信によれば、29日夜、カシュガル近郊のトウモロコシ畑での公安と容疑者の交戦で、容疑者のうち6人が射殺され3人が逮捕されたという。世界ウイグル会議は6人の射殺が投降した後のことだったと非難している。

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Follow up: Zhongba Earthquake

by Days posted at 2008-09-01 09:55 last modified 2008-09-01 17:04
地表裂痕

シガツェ、チュンバ(仲巴)地震のその後。チベット自治区地震局は28日、現地対策本部からの報告として、以下のように伝えている。

  • 震源地には約10キロにわたる亀裂と、液状化現象がみられた
  • 隆格尔郷の学校と民家に軽微な損傷
  • 震源地近くで震度8ないし7を観測した地区には遊牧民がいるだけで村落はない
  • 牧民によれば、地震の際、震動と同時に地鳴りが感じられ、揺れが3分ほど続いたという
  • 牧民には被害はなかった

また、新華網のきのうの報道によれば、この地震で541戸の家屋が破損したという。

チュンバ県県委員会の朱江書記は、8月25日にチュンバ県で発生したマグニチュード6.8の地震で家屋541戸が被災したと話した。被災者は避難を完了しており、死傷者の報告はないという。
家屋以外には、学校建物156棟、郷・鎮役所86棟が被災、飲料水の井戸48ヵ所が使えなくなった。また、柴曲発電所、帕羊発電所で停電が起き、直接の経済損失は610万元と見られる。
書記によれば、現在、チュンバ県の被災者はすべて避難している。自治区民政庁シガツェ地区民政局は400張のテントを供出、自治区教育庁は3500枚の綿入り布団をチュンバ県に送った。これらの救援物資は、布多、隆格尔、吉玛、帕江、仁多など被災した地域に既に到着している。合わせて2.45万元分の医薬品が手配されており、被災地域で疫病が発生しないようにするという。

また、AP通信によれば、29日17:43頃にもマグニチュード5クラスの地震がネパールとの国境付近で起きたのをUSGSが観測したという。

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ejSplitter

by Days posted at 2008-09-02 17:16 last modified 2008-09-02 17:16

このウィンドウの右上にある「検索」窓がうまく日本語に対応していないのには以前から気づいていたが、そんなもんだろうと思っていた。別件で新たにPloneサイトを使うことになり、ワークフローのところを調べていたら、この「検索」の解決策が見つかった。
というわけで、ejSplitterをインストールして、このblogにも設定してみた。ちゃんと検索できるかな。

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Tibetan Monks Still Held in Qinghai

Article from Radio Free Asia

by Days posted at 2008-09-02 20:05 last modified 2008-09-02 17:09

チベットNOW@ルンタで「チベットのグァンタナモ収容所」と衝撃的に紹介されたRFAの記事の全訳。

[カトマンズ]中国の支配に対して広がった抗議活動によって逮捕された数百人の僧侶はラサを追放され、青海省で拘束されているという。
情報筋によれば、チベット自治区にある有名なセラデプン両寺院の僧侶がデモを主導したとして、これらの寺院が標的にされている。
ラサ近郊の両寺院には、カムやアムドなど遠くチベット東部からも多くの僧侶が学びに来ていた。 匿名を条件にした証言によると、ガンデン寺院の一部の僧侶グループもこれらの僧侶と共に拘束されているという。
ラサでは3月14日まで4日間続いた平和的な抗議行動の後、中国人経営の商店や住宅に対する暴動が起きた。中国政府は大量の軍事部隊派遣で応じ、自治区と周辺のチベット人地域を外部から隔離した。
北京政府はチベット人1人を含む22人が亡くなったと伝えたが、亡命チベット人の指導者によれば、暴動で203人が亡くなっているという。

ラサからの列車

匿名を条件にした信頼すべき情報源によると、4月25日にラサを出発した列車にこれら3つの寺院の僧侶、675名が乗せられたという。
「675人のうち、デプンからが405人、セラが205人、ガンデンが8人でした」。残る57人はラサのその他の寺院で拘束された僧侶だという。
彼らは海西(ツォンブ)モンゴル族チベット族自治州の「ゴルムドにある軍拘置所に連行されました」。青海人民統一戦線宗教局が付き添っていたという。
依然抗議活動が続いている四川省のカム地方の僧侶もゴルムドで拘束されているが、人数は個別には把握できていない。

3つのグループ

僧侶たちは3つのグループに分けられているという。
「デプン寺の550人の僧侶が、4月10日午後、武警によって拘束され、ネチャン軍事訓練校に連行され、そこで拘束されました。続いて4月14日の夜、大量の武警部隊がセラ寺に来て、ラサから20キロほど東にあるツァル・グンタンの軍刑務所に400人の僧侶が連行されました。4月17日にはガンデンの僧侶の一部も捕まり、ラサのどこかへ連れて行かれました」。
拘束された僧侶たちは、殴打されるなど、手荒い扱いを受けたという。
「青海省のレコン(同仁)県マパにある国家中等学校に、デプンとセラの24人の僧侶が6月25日以来、拘束されています」。

民家での拘束

この地域の他の情報筋によれば、青海省マホ(黄南)チベット族自治州のソグポ県にある寺院出身の僧侶数人もラサで修行していた。
「最近になって彼らはソグポ県庁近くの民家で拘束されていたとわかりました。刑務所には入れられなかったものの、自宅軟禁に近い状況だったようです。その後、4月に彼らはゴルムド送りになったそうです。民家で拘束されている間、彼らは外出を許されませんでしたが、家族や親戚がその民家を訪問することはできたようです。青海省ツォルホ(海南)チベット族自治州のゲパスンド(同徳)のいくつかの寺院からラサに出て修行していた僧侶は、30、40人ほどいました。ツァン僧院出身でセラ寺にいた僧だけで20人はいたでしょう。それが全員拘束されたと聞きました」。

兄が捕まっている

マホ州レコン県に住むチベット人女性は、ラサで修行していた彼女の兄が捕まり、ゴルムド拘置所に送られたことを知った。
「ご存知のとおり、彼は四川省アバ(阿覇)のキルティ・ゴンパにいたのですが、3月の抗議のときにはラサのセラ寺にいたのです。そんなに長く、彼を探せませんでした」。
ラサの寺院には、青海省を含む周辺地域から僧侶が集まってくる。「伝統的にそれもそういうことだったのでしょう」とニューヨークにあるコロンビア大学のチベット専門家、ロビー・バーネット氏は話す。「寺院には僧院がいくつもあって、数百年にわたり、同じ出身の僧侶たちが同じ僧院に入ることになっています」。1994年から改革の試みがあったが、成功はしなかったという。
バーネット氏は、3月10日に始まったラサでの抗議は、青海省アムド出身の僧侶が主導したとの論文を発表している。
「まったくその通りだったと、何人かは言ってくれました。2日間にわたるセラとデプンでのデモもその通りだったそうです。が、その証言がどの程度信頼できるのかはわかりません」。

RFAの問い合わせに対して、デプン寺管理委員会は話すことを拒絶し、セラ寺は電話に出さえしなかった。
また、レコン県の国家中等学校に僧侶が拘束されているという情報について、黄南県公安庁は否定している。

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Olympics Diary of a Tibetan

by Days posted at 2008-09-04 23:00 last modified 2008-09-05 02:30

カルフォルニア州の中国語サイト、China Digital Timesに掲載された記事。7/22から8/9まで続くのだが、とてもすぐには訳し切れないので、途中まででご容赦を。しかもどこまで本当のことか、裏付けが取れていないので注意。

以下はアムド出身のチベット人学生が中国語で書き、中国語のサイト「新世紀新聞網」に掲載した日記であり、China Digital Times.netにはその英語訳が投稿された。北京で華々しくオリンピックが開催されている一方、離れたチベット地域での悲しみの日々が綴られている。

きょう、2008年の7月22日火曜日は、故郷に帰ってきて10日目だ。この10日間、たとえテレビのスイッチをひねることを拒んでも、インターネットからできるだけ逃げようとしていても、それでもこんな離れたチベットに暮らす田舎者にさえ、北京オリンピックに関するさまざまな話題が耳や目に飛び込んでくる。いっそ、特別な日記をつけてみようと思う。「オリンピック日記」を。北京でオリンピックが開催されている期間中、テレビやインターネットなしの遠く離れたチベットで、北京オリンピックに関して何を自分が思ったのか、事細かに書いてみたい。

2008年7月22日(火)オリンピックは目前に

牛を集めるのから戻った父は、朝食のときに言った。大きな川を渡る橋のたもとに、砂袋で作られた堡塁が新たにできていて、武装した兵士が詰めているのだと。父は信じられないというように舌打ちして、信じられないのはその堡塁がいつのまにかできたことのようだった。「きのうは何もなかったんだ、きょう通りがかったら突然出現したように見えた」。朝食のあいだ、その話題で持ち切りだった。年寄り連中は、いつその堡塁ができたのか誰も知らなかったが、その堡塁が不思議だとも思っていないようだった。それに、それがいよいよ開催されるオリンピックのために作られたのだということを家族の誰もが疑わなかった。さも当然といったみんなの反応を見ていて、オリンピックのための政府のやることにみんなが慣らされてしまっていることに、逆に私は驚いてしまった。

夕食のとき、父は今度は、県内全域の郡政府のある町が封鎖され、交通機関はみんな停められ、郡と郡のあいだは自動車も通行できなくなると聞いたと言った。本当にそんなことができるのかと、私は父に聞いたら、彼らには何でもできる、3月14日の事件でもそういうふうになったのだと言う。そのときもすべての交通機関が停められ、いくつもの検問を抜けられるたのは特別な乗用車だけだったという。それを聞いて、自分も納得した。政府は考えうるすべてのことができるのだ。オリンピック期間中に事件がひとつも起きないこと、完璧なオリンピックだったと報告することを最優先として、ふだん通りの生活を送る市民の生活を乱したり、社会秩序を無視したりすることは、おそらくたいしたことではないと判断されているのだ。それを考慮するどころか、説明することすら必要ではないのだ。
それがよいわけがないと、自分は思う。8月に町が封鎖されてしまったら、どうやってZHにプレゼントを送るのだ? もともと彼には8月下旬に送るつもりでいたが、町が封鎖されてしまったら、成都にも行けなくなってしまう。さらに深く考えて、それでも北京にいる私の友人にプレゼントを送ることにした。

午後、郵便局に行った。カウンターの前に大勢が群がっている。小さな町の郵便局なので、番号札をもらうとか、並ぶとかは考えられないのだろう。だから全員が我先に群がっているのだった。数人の中国人労働者が仕送りを送金するのが終わると自分のトラブルの番だった。職員は、何を送るのか、ふだん送れるようなものでも、オリンピック期間中は送れないことがある、と言った。思わず自問自答した。まったくオリンピックだろうが何だろうが、それが人々の生死を左右するものではないではないか。「なぜ送れないんですか? ただの小さなプレゼントですよ」私は禁制品リストに、小さな玩具が載っていなかったことを感謝した。時間はかかったが、最後には送ることができた。

ああ、オリンピックの匂いが目の前まで漂ってきている。

7月23日(水) 霊芝、松茸とオリンピック

山にはたくさん、たくさんの松茸がある。人々の収入を霊芝と松茸に頼っているような郡政府のある小さな町では、どの一家もその相場を分析して、松茸の季節がやってくるのを待っている。

きょうの午後、母方の義叔父のひとりが、今年の松茸ビジネスについて私の叔父と相談するためにやってきた。今年は大勢の外国人や要人がオリンピック期間中に北京に訪れ、そうした人たちが松茸や霊芝を大量に買って行くだろうという。だからオリンピック期間中は霊芝も松茸も非常に高く売れるだろうと、彼らは喜んでいた。

去年から今年にかけて、霊芝の価格は高値で推移していたが、シーズンが終わりかけると価格は下がり、平均で1/3になってしまった。みなオリンピックが価格を吊り上げることを期待して、去年収穫した霊芝を売らなかった者も多いらしい。みんなオリンピックを待っていて、オリンピック期間中にどれだけ稼げるかと皮算用していた。期待に反して、もちろんオリンピックはそれなりの影響をもたらしたのだが、それほどとは言えなかった。いまオリンピック開催直前にして、霊芝の価格は底値になっている。

今年の松茸取引はかなり遅いと叔父は言う。数年前までは、松茸が大きくなる前に中国本土からの中国人商人が競ってやってきたものだった。今年は松茸が大きくなっているのに、商人は数人しか来ず、価格も昨年より低迷している。輸送がますます便利になって、中国本土と外国に出荷される松茸は、ボイルから冷凍に変わった。加えて小さく細切れにしたものを乾燥させて、ドライピースとして出荷する者もいる。郡政府のある町が封鎖されてもいなくても、チベット人が中国本土とチベット地区とを行き来するのは厄介だと叔父は言う。途中いくつも検問はあるし、目的地に着いても泊まる所がないという。チベット人だというだけで、ホテルは宿泊を拒否するのだそうだ。もし政府が都市間の旅行や通行を止めたり制限したりすれば、松茸市場には致命的な影響が出るだろう。

叔父は作り笑顔で言う。「オリンピックはみんなにとってよいものだと思っていたが、期待はしていなかった。この状況が続けば、何もできなくなってしまう。オリンピック期間中はテレビでそれを観ているしかないね」。

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Flood hits area near Labrang Monastery

by Days posted at 2008-09-05 09:50 last modified 2008-09-05 14:53
甘粛網より

五輪期間中のことで、ICTがリポートを出さなければ、見逃していた災害の記事。

8月22日付甘粛日報によると、20日未明、甘粛省夏河(ラブラン)県で大雨による土石流が発生し、短時間のうちに市街の4つの主要河川に流れ込んでせき止めて洪水が発生した。家屋が押し流され、交通を寸断し、4人が死亡、100人以上が負傷して、約182万元の経済損失が生じたという。
 洪水は有名なラブラン寺にも迫ったが、県政府が重機と400人以上の将兵を投入して、住民も協力して排水に成功。ラブラン寺は危機から逃れた。

ICTがきのう、ラブラン出身の亡命チベット人の話として伝えたところでは、亡くなったのはデュラ氏の妻(58)と彼女の姪、それにアマ・ドンカル(66)とマンカル・ドロンツォ出身の僧侶の4人だという。
ラブランでは5月にラブラン寺を武装警察が包囲し、数百人の僧侶が逮捕される事件があったが、彼らもまたゴルムドで拘束されたままなのだろうか。

また8月21日には、新疆カシュガルとパキスタンのギルギットを結ぶ中巴公路(カラコルムハイウェイ)の中国側、1612キロポスト付近でも土石流が発生し、道路が50メートルにわたって破壊され、通行止めになったそうだ。
通行中の車輛に5人が閉じ込められたが、3時間後に救出され、その日のうちに通行再開したという。

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Tibetan Monks Freed in Golmud

Article from Radio Free Asia

by Days posted at 2008-09-06 00:05 last modified 2008-09-05 21:09

RFAの「チベットのグァンタナモ収容所」ゴルムド拘置所続報。事態は進展しているが、好転とは限らないようだ。

チベット情報筋によれば、四川省のチベット人地域出身の僧侶たちが、青海省での拘束から解放され、故郷に戻ったという。
一行は青海省ゴルムドで他の僧侶たちと共に4ヵ月以上も拘束されていた。
全員がラサの僧院で修行していたが、中国政府に反対する3月の抗議活動との関連を疑われていた。
青海省出身の僧侶は、解放後、青海省統一戦線宗教局の職員と共に自宅に戻り、そこで軟禁状態になっている。

インド在住の僧侶によれば、まだ反中国政府の動きが残っている四川省出身の僧侶たちは、ゴルムドで長期間に渡り拘束されていた。
「四川省当局が解放に同意する文書が届くまで彼らは出られませんでした」とツェリンと名乗る僧侶は語った。
「8月27日、最終的に50〜80人の僧侶と一般人が四川省の阿覇(アバ)郡政府に戻されました。彼らは郡政府に近い学校の敷地で拘束されています。政府職員や公安、軍隊が合同で彼らを監視しています。『政治的再教育キャンペーン』のようなものを受けさせられることになるのかもしれません」。
僧侶たちは敷地から出ることを禁じられているが、親族が彼らを訪ねることはできるのだという。拘束されている僧侶のうち、27人はキルティ・ゴンパと、アバのツェ修道院、ゴマン学堂の出身だそうだ。
「抗議活動の中、ラサで捕まったアバ出身の証人も中に混じっているそうです」とツェリン氏は言う。

解放された中の別の僧侶によれば、僧侶たちは四川省に戻される際、いくつかのグループに分けられたという。
「ゴルムドに拘束されていた僧侶のうち、60人のグループが8月26日に四川省のアバへ移動しました。統一戦線宗教部の職員が公安に同行してきて、各地方ごとに僧侶たちを引き受けました」と匿名の僧侶は語る。
「四川省のその他の地域の僧侶たちは、統一戦線宗教部の職員と公安に伴われて、8月27、28、29日にゴルムドを離れました。最後の14人は8月29日にゴルムドからカンゼへ向かいました」。
解放された僧侶によれば、ゴルムドでの拘束中、僧侶たちはむち打ちと心理的な拷問に耐えなければならなかったという。「そのため大勢が病気になりました。中には心臓病を抱えた者もいます」。
「ラサの僧院には戻らないように言われました。それぞれの故郷でも、いまでも彼らの行動は制限され、当局の許可なしにはどこへも行くことができないのです」。
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Iwaki

たまには自転車旅の話

by Days posted at 2008-09-07 22:55 last modified 2008-09-07 19:02
2008-08-29夕筋踏切

2008-08-29塩屋崎

2008-08-29代ノ下橋

2008-08-29江名漁港

2008-08-29小名浜

2008-08-30蛭田川

2008-08-30勿来海岸

2008-08-30九面

朝起きたら、まだ雨だった。プールへ行く支度をしている子供たちの横で天気予報を調べると、きょうはこれから晴れるらしい。子供たちを見送り、MTBをワゴンに乗せて出発。泉駅の駐車場にワゴンを停めて電車に乗り換える。
広野駅には11時すぎに着いた。発車のオルゴールは「シュッポーシュッポー」の汽車の歌。このあたりがその歌のモデルだったとかで、ホームにもその碑が建っている、
嘘みたいだが、予報通りピーカンだ。さっそくMTBを組み立てる。タクシーからスーツ姿の男たちが下りてきて、駅の窓口でそれぞれに愛知までの切符を買い、領収書をもらっていたと思ったら、缶ビールを探してうろうろしている。出張も大変だ。
11:30。駅前から、東北の旧街道を南下する。まだ走り出したばかりなのに、遠くまで来た、と思う。道幅は2〜3間(3.6〜4.8メートル)。江戸時代の宿場町に特有の幅で、これだとセンターラインが引けないから、自動車の交通からは取り残されることになる。観光資源として生かせるところはいいのだが。

道は浅見川にぶつかって、国道6号線に合流。橋を渡って、切り通しを抜けると、地図のとおりに左へ旧道が分かれる。常磐線の線路と、現在国道とのあいだの、見捨てられたような道だ。小さな峠を切り通しで抜けると、線路脇の道になった。「夕筋踏切」という小さな踏切があって、その向こうは海。「いまは山中、いまは浜」の歌の出てくる「浜」はこのあたりだったかもしれない。
旧道は変わらぬ道幅で現在の国道に絡み付くようにうねうねと続いている。18歳未満立ち入り禁止と書かれたラヴホテルが2軒。看板は国道に向いているのに、入口は旧道から。どっしりとした石造りのポータルの小さなトンネルを二つ抜けると、林の向こうから踏切がカンカンと鳴る音。短い編成のローカル列車が目の前を通り過ぎていった。
踏切から線路を見れば、トンネルの入口が二つ並んでいて、線路はその片方に通じている。線路のないトンネルのレンガ作りの入口はやや小さく、そこまでダートに轍が続いていた。あとで調べると1967年に電化した際、それまでのトンネルでは架線の高さが足りずに新しいトンネルを掘り直したようだ。常磐線が開通したのは1898年(明治31年)だから、古いほうのトンネルは100年以上経って、まだ現役で地元の人たちに使われていることになる。

末続の集落を通り抜け、小さな駅のホームのガードをくぐり抜けて、いったん山の方に向かう。末続から久ノ浜にかけて、国道も線路もいくつもトンネルを抜けていくのだが、旧道は山側の小さな峠に迂回して、まったくトンネルを使わずに行くことができる。もちろん坂はそれなりにきつい。農作業をしている人が、そんな道を辿る自転車を怪訝そうに見ている。峠を越えると、緑の中を滑走。気持ちがいい。
信号のない国道のトンネル出口を、大きな冷凍トラックが通り過ぎて、続いてクルマが来ないのを十分に確認して横切る。「国道6号線、東京まで221キロ」の標識と、「大雨注意報発令中 走行注意」の案内板。国道をまっすぐ走れば2、3日あれば自転車で東京まで行けるのだ。
小さな川に沿って線路の橋まで海に迫ったかと思うと、旧道はまた山側に迂回する。またもや国道と立体交差して、坂を上がると、山を削って走るもっと立派なバイパスに出た。走るクルマは少ないが既に供用されているようだ。このあたりでは三世代の街道が並走していることになる。車道は通じていないが、植栽の切れ目から歩道には出られるようになっていて、まっすぐ延びるバイパスに少し誘われる。

信号で国道を横切って、久之浜の町中に。大久川には弧を描いた江戸時代スタイルの木橋、代ノ下橋が架かっている。0.3トン制限で、もちろん車輛通行止め。釣り竿を持った老人が、自転車で走って行く。
大久川に沿って河口まで行き、コンクリート橋を渡って、久之浜の町中を走る。夏の昼前の町は暑さでしんとしている。町はずれには幼稚園。園庭の向こうには太平洋が見えた。旧道はここで国道に吸い込まれた。常磐の動脈を行き交うトラックの犠牲にならないように走る。
このあたりは波打ち際に国道と線路とが並んでいて、電車の窓からもよく海が眺められるところだ。しばらく行くと、西行の歌碑が立つ広場があって、一休み。国道と線路とのあいだ、ラーメン屋の裏からまた2間幅の道が分かれているのを発見。地図を見ると、「波立寺」の文字に隠れて見逃していたが、これも四倉に向かう山越えの旧道のようだ。
海辺からそれて、その道をたどる。古い寺がある。道筋の雰囲気は間違いなく旧道だ。大きくカーブしながら坂を上がって行く。バイパス工事の看板。さっきの続きを、こんなところに通すのだろうか。汗をかきながら切り通しの峠を越え、坂を下って行くと、四倉の町中にぽんと出た。夏の日差しの中の旧街道は、台湾に行ったときに走った東海岸の小さな町(東河)を思い出す。

四倉駅に立ち寄って、PETボトルのジュースを1本買い、駅前通りを海に出る。国道や線路と並行するのはここまでで、ここからは海岸線沿いに小名浜を目指すことになる。町中から離れる前にとジュースを買ったが、それでも海岸線の県道沿いにはドライブインも自販機も揃っていた。
仁井田川の小さな橋を渡るとキャンプ場があった。夏休みらしく、何張りかテントが見えた。
県道豊間四倉線。まあ、ペダルを踏む以外に楽しみのない道だ。松の防砂林に遮られて、海は見えない。松についた虫のほうが気になる。5キロほど走った夏井川の河口を渡る橋がほぼ唯一のランドマーク。「塩屋崎方面、大型車通行不可」の案内板がこれでもかというほど何度も現れ、逆に気になる。
案の定、薄磯の小さな漁師町に差し掛かったところで、2車線路は突然終わり、弁天川を渡る橋へ道はかっくんと折れる。橋を渡った先は、町中の路地に県道マークがついている。これはこれは。コンクリートの堤防沿いの道を進んで行くと、煮タコ加工工場の壁に「塩屋崎→」とペンキで表示がしてあり、それに沿っていくと水子供養などの碑が立ち並んで背筋が寒くなる富神崎の尾根に上がり、それを越えるとまた町中に出た。

シーズンの終わった海水浴場の向こうに塩屋崎の灯台。その下まで走って行くと、客のいない平日の駐車場に、3軒並んだ土産物屋のおばちゃんたちが手持ちぶたさにしていた。近づくと録音テープの歌が流れるという美空ひばりの記念碑には、あまり近づかないようにしておく。
夏休みのサーファーが多い豊間の海水浴場。砂浜に沿って走った。豊間のセブンイレブンで麦茶を買う。店の前の郵便ポストに自転車を立てかけておいて、いざ走ろうと思ったら、その下でポストにつながれて犬が休んでいて驚いた。おとなしい犬だった。
ここからの旧道は路線バスも走る道。バス停を次から次へたどって走るのは楽しいものだが、「の印」というバス停があって思わず吹き出してしまう。いわき病院、塩屋崎生協病院と、このあたりはやはりバス路線が不可欠なようだ。
合磯(かっつお)から岬の切り通しを抜けて江名。ここまで来るともう小名浜はすぐだ。案内標識に書かれた「アクアマリンふくしま」までの距離を逆算しながら走る。江名の岸壁で一休み。船に向かってカメラのシャッターを切ったら、足下を小魚が泳いで行った。
中ノ作、永崎と漁師町が続き、このあたりがきっと本当の小名浜産の魚を水揚げしているところなんだろうと思う。下神白の高校の前を過ぎて、トンネルと抜けると、小名浜の魚市場の前に出た。

さて、小休止はあちこちでしているものの、それを除けば広野から2時間半、走りっぱなしだ。14時すぎ。おなかも減ったので、客が出入りしている「うろこいち」という魚屋兼食堂に入り、本鮪赤身鉄火丼を頼んだ。カニ汁がついて、すぐに出てきた。まぐろてんこもりでおいしい。
「いわき・ら・ら・ミュウ」の前の岸壁で食後の一休み。海上保安庁の船の向こうに、ガラス張りの不思議な球体、アクアマリンふくしまが浮かんでいる。そのまま電車に乗った泉駅まで走って行くことにする。
港町の貨物線に沿って、走る。大型車が走るせいか、舗装がでこぼこしていてあまり走りやすいとは言えない。消防署の前から広い道をそのまま進もうとして、間違いに気づく。斜めにそっと分かれる細い道が、泉への県道だった。
藤原川を渡る橋からは、煙突からもくもく煙が出る工業都市が一望できる。国道バイパスの立体交差をくぐり、朝、湯本からクルマで来た道をたどっていく。小名浜からほんの5キロほど。あっという間に戻ってきた。
泉駅前には屋根付きの駐輪場があったので、MTBはそこにロックして停め、ライトだけ外しておく。再びクルマを運転して、子供たちが遊ぶプールに戻る。続きは明日だ。


翌朝は6時に起きた。朝食までの2時間、また走ってこようという算段だ。
泉の駅前通りを県道までまっすぐ走る。県道20号は、バイパスができるまで国道6号だったのだろうと思う。あとで地図を見たら、もうひとつ県道239号が海沿いを走っていたが、まあきょうはしかたない。とにかく急ぐのだ。植田にかけて、小さな丘を越えるルートになっていて、意外にだらだらと上り坂が続く。朝で涼しいから、まだよいものの。
植田の町中を抜け、鮫川橋を渡る。河口近くというせいもあるのだろうが、小さな川のわりに長い橋だ。渡って2つ目の信号を右へ。少しでも海に近いルートを走りたい。畑の中の道は、わだちが水たまりになっていたりして、意外と走りにくかった。鵜の巣という交差点で、同じように畑の中を突っ切る現在の国道とクロス。道は緩やかにカーブして、神社へ向かって行く。幸いにして「←勿来」の標識があって、神社の行き止まりで道に迷うことは避けられた。道沿いに民家が切れ目なく並び、中には旅館や商店もあって、かつてはこれが街道だったのでは、と思いをめぐらせた。

勿来の町はずれで、国道に合流。まだ時間があるので、勿来海岸を抜けて、大津港駅まで行くことにした(これだったら、泉から植田までも海沿いのルートを取るべきだった)。海岸沿いに国道と線路とが並ぶ。国道には歩道があるので、それほど緊張せずに走れるのがよい。
海岸沿いは人気のない海水浴場。勿来と言えば関所である。線路と国道に挟まれた狭いところに、赤色灯の着いた小さな小屋「勿来関検問所」が目立つ。江戸時代の勿来の関は、線路のガードをくぐった山中にあるらしい。そこまでは行けない。いまでこそ砂浜が広がっているが、江戸時代は山が海に迫る本当の要衝だったのだろう。
行く手にも山が迫ってきて、短いトンネルで県境を越えた。常磐交通のバスは平日朝の1日1便だけ、律儀にもそのトンネル手前の九面(ここづら)までやってくるらしい。九面からは茨城県最北端の港、平潟港への道が分かれているが、きょうはまっすぐ駅へ向かうことにする。
茨城県に入ると、国道6号もとたんに関東の雰囲気になる。郊外の住宅地を過ぎて、「美術館入口」という真新しい交差点を右へ(左に行くと天心記念美術館があるようだ)。小さな丘を越えると、ひっそりとした駅前の市街地。予定より1本前のいわき行き電車がちょうどホームを出て行くところだった。
これで1993年まで30年以上も日本一広い市だったいわき市の海岸線、約60キロ以上を走り抜けたことになる。ちなみに、現在の日本一、高山市には海はなく、2番目の浜松市の海岸線は天竜川から白須賀まで約28キロしかない。(8/29、30)

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ときどき旅
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