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Kasur Tenzin Namgyal Tethong Speaks

by Days posted at 2010-10-01 02:25 last modified 2010-11-22 23:58
テンジン・テトン氏

「亡命政府の50年間のあいだで民主主義を導入し、実行してきた。しかし本土ではたったひとりのチベット人もチベット人の自由には選べない。自治区、自治県、自治州といっても、代表者を選ぶのは中国人で、チベット人の自由にはならない。だから、いかにチベット人が世界中に散らばっていようと、チベット人自身が自らの意思で首相を選んでいるということが、中国に対するいいメッセージだと思っている」−−。
29日、東京・新宿で行われた講演会で、亡命チベット政府の元首相、テンジン・ナムギャル・テトン氏はこう語った。
チベット亡命政府(中央チベット政府)は2001年に初めて首相(カロン・トリパ、主席大臣)を直接投票により選ぶ選挙を行い、その結果、現在はサムドゥン・リンポチェが首相に就いている。そしてちょうどいま2011年に任期満了となるサムドゥン・リンポチェの後任を選ぶ選挙が始まろうとしていて、テトン氏もそれに立候補している。
以前は議会によって閣僚が選出され、閣僚の中から首相を互選しており、テトン氏は閣僚を務めていた1990年代に任期1年の首相職を経験している。ダライ・ラマ法王が民主化を進め、多くの政治的権限を民衆と政府に移譲したいまでは、当時とは首相の重要性は比べ物にならなくなっている。このカロン・トリパの選挙、そしてほぼ同時に行われる議会議員選挙に、多くの亡命チベット人が希望を託すことになる。

テンジン・ナムギャル・テトン氏は、1960年、インドのムスリーに最初にできた難民学校で学び、そして教え始めた。1968年には「シェジャ」という教育機関誌を仲間たちと一緒に発刊。これがほぼ最初のチベット人によるNGOだと言われる。
機関誌を作る中で、テトン氏を中心とした若者たちは、亡命チベット人社会の未来について毎日のように議論したという。それが1970年の「チベット青年会議」発足につながった(彼は4人の発起人のひとり)。チベット青年会議(TYC)には各学校、難民キャンプの代表が参加して、チベット人社会で初めての大きな政治的組織になった。
「ムスリーで学校を作ったときも学校の重要性よりも緊急問題として政治問題のほうが重要と考えていて、学校の重要性は考えていませんでした。同様に当時、青年会議の重要性は認識していませんでしたが、結果として政治的に重要な組織になりました」。
亡命政府も彼に目をつけ、1973年にはニューヨーク代表部の代表に抜擢された。亡命政府はニューヨークを足がかりに各国の国連代表に働きかけ、1959年以来それまでに3回のチベット問題に関する決議採択を実現させていた。
「しかしこの年は米中関係が樹立され、チベット代表部は閉鎖の危機にあり、よい状況ではありませんでした。ニクソン大統領とキッシンジャー国務長官は中国との関係を重視しており、チベット支援の要請はなかなか届きませんでした。裕福な人も大きな組織もチベット人を相手にしてくれなくなりました。そこで大学で仏教を勉強している人や関心を持っているヒッピーの人たちに接触し、小さなグループをいくつも作ってもらいました。それによってチベットに関心を持ち続けてもらうことに成功したのです」。

1979年には鄧小平の復権と歩調を合わせるかのようにチベット本土の緊張緩和のため、亡命政府の代表団本土訪問が計画され、テトン氏は1980年の第2回代表団に参加した。
「私が行ったことによって、それまで亡命政府が世界に訴えて来たことが真実だったということが確かめられました。私たちが把握していた以上にきわめて深刻に悲しい状況でした。どの家庭に行っても家族の誰かが拘束されている、誰かが拷問を受けているという状況。それが国内外の人たちに知られることになったというのが大きな成果でした」。
「その後、中国政府は経済発展を成し遂げました。各国は『中国に抵抗してもしかたない』と言うようになってきています。しかし2008年3月のチベット本土での蜂起を見てもわかるとおり、チベット人は希望を捨てていません。チベット人は決してあきらめていないと言いたい。私たちの闘争は人間としての権利です」。

「日本の難しい状況は理解できます。しかし日本政府がチベットのためにできることはあると思います。例えば亡命政府を受け入れたインドは、中印紛争に破れて以来、中国のチベット政策に口出しできなくなりました。ダライ・ラマ法王にも亡命チベット人にも、インド政府は公式には政治活動を許していません。しかし同時にチベット文化の保存やチベット人の教育には大変な努力を払っています。また1959年以来、受け入れたチベット人をひとりも追放したことはありません」。
おりしも28日に日本政府がビルマ難民の受け入れを始めたばかり。ビルマだけでなく、まじめで文化が似通っているチベット人を日本政府は受け入れてほしいとほのめかしていたようだ。
その背景には、チベット人は独自の文化によって世界に貢献できるという彼の持論がある。1979年、ダライ・ラマ法王が初めて訪米したときにはティーチングへの集客が一苦労だったという。それが米国内では急速にチベット文化、仏教への理解が深まった。1986年までのニューヨーク在任中にテトン氏は草の根の支援の輪を広げ、87〜90年に着任したワシントンDCではInternational Campaign for Tibetを設立(いまはリチャード・ギアが理事長を務めている)。
そして現在はSFベイエリアに住んでスタンフォード大学でチベット学の教壇に立つ傍ら、シリコンバレーの起業家たちを集めて設立されたダライ・ラマ財団の代表を務め、チベット100人委員会の委員長でもある。昨年日本でも開催された「ミッシング・ピース展」の母体がこの2つの団体だったと言えば、テトン氏のカラーがわかりやすいかもしれない。
「法王を始めチベットの高僧、学僧によってチベットの文化がいかに深く、豊かであるということが世界に示すことができているのではないかと思います。チベット仏教がただ単に深く、豊かであるということだけではなく、その現代性、現代における意義も認識されているのではないでしょうか」。

各国にチベット文化を紹介し、その良さをわかってもらい、サポーターを組織して、数多くのチベット支援団体を作って草の根から支援してもらう。実はこうしたことがテトン氏の「戦略」だったのだ。その術中にはまった一人として、彼の新たな戦略を亡命チベット人がフォローしてくれることを願うばかりだ。
首相選挙予備選の投票は今週末の10月3日。この結果により、21人の候補者が上位8人に絞られ、決戦投票が半年後の来年4月に行われるという。

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