Miran
3月6日の次回「チベットの歴史と文化学習会」では、神戸市外国語大学の武内紹人さんがシルクロード沿いの遺跡から出土したチベット語文献について話されるという。
その中に懐かしい地名を見つけた。ミーラン(米蘭)。私は1990年にここを訪れている。いまは文物協会がしっかりと保護しているのだろうが、当時は近くの村から遺跡への道なき道の脇に「自治区一級文物保存区/米蘭古城跡」と石碑があるだけで、まったくほったらかしの状態だった。
沙漠の中に3週間もいて、ようやくミーランの遺跡、そして久々の文明社会に触れた当時の記録から。
まるで2年前に読んだヘディンの探検記の挿絵のような風景が私の目の前に広がっていた。昨日と同じ沙漠の中に忽然と石組みの遺構が現れ、私は戸惑い気味にうなずいた。そうか。確かにスウェン・ヘディンと同じものを目にしているわけだ。本を読むのと違うのは、砂だらけの砂利道に沿って相変わらず電線が走っていることと、私が確かになま暖かい風を感じていることだけだった。
岩を組んで造った数百もの遺構は何の跡なのだろうか。ラクダの上から眺めながら脇を通過していく私の目にはそれが音譜のように見えた。ついでに荘重な鎮魂歌を私は思い浮かべた。
アンテナを天に巡らせた放送局のような大きな建物が丘の向こうに見えてきた。米蘭の新市街は想像以上の都会なのだろうか。新市街の入口がきょうの目的地。
しばらく進むと泥の遺構が間近に迫ってきた。これが古代シルクロードの都市帝国、米蘭の跡なのだ。
ラクダを下りていったんは歩き始めたものの、あんまり砂に足がとられるので私はまたラクダの足に頼ることにした。木片が砂の上に散らばる。木造の建物があったのだろう。板を切り出せるほどの大木はここらにはないから、遠く通商路を介して運ばれてきたに違いない。私は勝手にそう結論した。千百年前の都を目の辺りにして──その都に出入りする人々や異国の街の様子を目頭に思い浮かべて──ようやく私は敦煌からここまでその古代の通商路を辿ってきたのだと実感できた。もう人間関係なんてどうでもいい。宗教やら政治やらをうっちゃって、私はただ古代を想像することに没入したい。
さらに進むと、さっき新市街の放送局に見えたのが、泥を固めたパゴダの跡にすぎないのがわかった。まだ遺跡の中なのだ。塔の内部から調査用の鉄塔を組み上げてあるので、それがアンテナに見えたわけだ。並走する電線がその泥の一部を削ってまでまっすぐに張られているのが痛々しい。これほど大きなものが数々の嵐(カラ・ブラン)によく耐えたもんだ。それも時間の問題だろう。楼蘭の遺跡もきっとこれと同じ環境に曝されているにちがいない。
時を同じくしてウイグル人が中国政府の抑圧に対して大規模な反対運動を展開していたことは当時日本では報道されなかったし、また社会生活から無縁の沙漠の中にいた私たちもそれを知らなかった。
「新市街」と書いたミーランの現村は実はオアシスの開拓村だったのだが、その村には滞在できなかった。それが騒乱の影響だったと知ったのはさらに1週間後、実は私たちがいた新疆南部には外国人の旅行規制が敷かれており、私たちも旅を中止せねばならないと知らさせたときのことだった。私たちは規制線の中にいたのだ。
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