Serfs Emancipation Day
チベット自治区は19日、「チベット農奴解放記念日」を設けることを決めた。以下、引用は西蔵新聞中心(チベットニュースセンター)の「チベット100万農奴大解放−世界人権史上の記念碑」から抄訳。
チベット自治区第9期第2回人民代表大会は19日、毎年3月28日を100万人農奴解放記念日に制定することを決定した。ラサでの"3.14"暴力犯罪事件では殴打、破壊、略奪などでダライ・ラマグループの反動的な本質がはっきりとしたが、中国共産党は自信と決心を持って前進することを永遠に堅持する。
1863年1月1日、米大統領のリンカーンが「奴隷解放宣言」を出してから100年経った1950年代でも、中国の大地であるチベットには封建的な農奴制度の影が覆っていた。1948年12月10日に国連総会で決議された「世界人権宣言」の第1条には、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」とある。だが当時チベットの民衆には少しも自由がなく、農奴の子息は生まれながらに農奴として登録され、一生を農奴として過ごさねばならない運命を負っていた。
しかし、1959年の民主的改革は、100万人のチベット農奴の暗い暮らしを打ち破った。その年、軍と民衆は旧勢力の反乱を抑え、封建的な農奴制度を中止させ、民衆が主人公となる新たな時代を迎えた。「ダライ・ラマの祝寿のために、議会は15回も法会を行わなければならず、そのたびに食事をやめ、血のしたたる腸、頭2つ、血、人間の皮を献上せねばならなかった」。これは自治区公文書館に保存されている1950年代初頭のチベット政府の関係者が書いた手紙の一節だ。
「近代史の記録によれば、チベット解放以前はこうした人体を使った宗教活動がたびたび行われていました」。1959年のチベット民主改革以前は、農奴は領主に所有され、譲渡されたり、賭博や借金の抵当として取られたり、貢ぎ物にもされてきたと研究者は話す。
「農奴は刀3丁分の価値しかなく、格差、高税、利息高という三重苦に直面していた。逃れて物乞いになるしかなかった」。いまなおチベットの民衆ににつたわる話だ。研究者によれば、当時のチベット社会では目をえぐる、手足を切る、皮を剥ぐなど、野蛮かつ残酷なの刑が存在していたという。
世界人権宣言の第4条は「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する」と規定しており、第5条では「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない」とうたわれている。かつてのチベットには「公民」の概念が存在せず、人口の95%以上が農奴と奴隷であり、たった5%の官吏と貴族、寺院の上位僧侶の「三大領主」の持ち物だった。奴隷には収入の道がないだけでなく、自身は領主の私有財産であり、主人が自由に売買できる「道具」だった。人々には最低限度の生存権さえ保障されず、民主的な権利など望むべくもなかった。
長く続いた封建的な農奴社会のため、広大なチベットの農奴は政治的な圧迫され、経済的にも搾取され、ときには迫害されてきた。「持てるのは自分の影だけ、残せるのは足跡だけだ」と農奴の中では言い伝えられて来た。かつてのチベットは世界でも最も深刻な人権侵害が行われている地域だった。
記事は1959年以来、チベットの民主改革がいかに成果を上げているか列挙している。いちいち訳すのが面倒なので、箇条書きでご容赦。
- 「政教一致」を廃止、民主的な政治制度を導入
- 新中国の憲法下で、全国の各民族人民と同様、国家の主役となり、すべての法律上の権利を獲得
- 人民代表大会をチベットでも行い、100万人の農奴からも代表を参加させた
- 現在、95%の有権者が県級の直接選挙に参加
一部地方の有権者立候補率は100%を達成している - 人民代表大会の代表者は自治区平均でチベット人など少数民族出身者が80%を占め、県、郷級では90%になる
- 自治区、市、県の公務員のうち、77.97%が少数民族出身者である
- 信仰の自由を享受し、大多数はチベット仏教を信仰しているが、イスラム教徒、カトリック教徒もいる
- 1980年来、中央政府は7億元以上の予算をチベットの宗教政策と文化財保護に充ててきた
- 各宗教の活動は正常に機能しており、信者は満足していて、信仰の自由は十分に尊重されている
- チベットでは現在、寺院があちこちで見られ、僧侶も多くなっている
- パソコンや携帯メールでさえ、チベット語が使える
- 自治区人民代表大会は地域にあった条例を制定し、逆に地域の実情に合わない国家レベルの法令の停止を実施している
- チベット暦の新年、ショトゥン祭など伝統的な祝日を、自治区の祝日、休日に加えている
- 実情に合わせ、婚姻法での法定年齢よりも男女とも2歳下げて結婚できるようにしている
- 婚姻法施行前に結婚した一夫多妻または一妻多夫の家庭については離婚させることなく、いまでもこのような婚姻関係の家庭が存在する
- 権利保護を十分に保障し、"3.14"事件の被告にさえ、弁護士をつけ、十分な弁護をさせている
半世紀は人類の歴史の大河の中で一瞬にすぎないが、50年前の100万人農奴大解放はチベット人民の人権の歴史上、きわめて光り輝く1ページだった。これは中国人権史上初の偉大な試みであっただけでなく、世界人権史上での重要な意義をもったできごとだった。
この記事については反論するほどの価値を感じないけれど、興味深いのはその後の経緯。
中国政府は昨年3月に受けたダメージを回復させようと焦っているようで、地方レベルの記念日条例に関わらず、東京の中国大使館が日本語訳を用意するなど海外に向けてアピールを始めている。
海外のマスコミもこれを一斉に報道。新華社はこれを国内向けに再利用し、20日には早くも「海外の偏見的反応」と題する記事が西蔵新聞中心に掲載された。これが面白い。
引用されている記事やICT、亡命政府のリリースは概ね間違いなく引用されていて、「はんたいことば」で読むと、まるで記者が西側の報道を擁護して、政府の政策を批判しているように見える。これを読む中国の人々がそんな視点を持ってくれればよいのだが。
19日、「農奴」という言葉が偏見に満ちた西側メディアに報じられた一方で、西側の人々にはダライ・ラマの知られざる一面を知ることになった。
英タイムズ紙は、「チベットは『苦い過去』の終焉を新たな祝日に」と題する記事で、「中国は昨年3月のラサでの事件を経て、国際イメージを焦って改善しようとしている」「記念日を新たに制定することで、数百年続いた封建社会にチベットを戻さないことを宣言した。ダライ・ラマもその時代に戻ることを否定していた」と報じた。長いあいだ、西側ではチベットの歴史上の農奴制度は徹底的に隠されるか、わずかにしか触れられなかった。封建制の頂点に立つダライ・ラマは、西側では慈悲に満ちた宗教的指導者として紹介されている。西側メディアの多くは依然として史実を顧みず、この記念日制定にAP通信は解放記念日のことを「政治的にナーバスな日を選んだ」と報じた。「今年、さらに不安定な局面を迎える状況の中でこの記念日を制定した」と中国政府の意図を憶測している。AFP通信は「中国政府が言う近代チベット史は、ダライ・ラマの言う歴史と明らかに異なる」とし、記念日制定が「間違いなく論争を引き起こす」と伝えている。
BBCの中国語サイトは、新華社とAP通信の報道を引用、中国チベット研究センター歴史部研究員の解説として「チベットの若い世代がダライ・ラマと西側の宣伝の影響を受ける可能性があり、そのために農奴解放記念日を制定して、若いチベット人に当時の事情を理解してもらわねばならない」と伝えた。研究員によれば、「封建制度は中世の欧州を暗黒時代に陥れたが、ダライ・ラマはその封建的な農奴制度を復活させようとしている」という。
ロイター通信は、中国当局はインドに亡命したダライ・ラマを独立主義者と見なして、昨年3月のラサでの暴力的なデモを煽動したと、激しく非難しているが、ダライ・ラマはそれを否定して、彼はただチベットでの高度な自治だけを求めていると語ったと伝えている。「チベット独立派」の言辞はさらに激しい。インターナショナル・キャンペーン・フォー・チベット(ICT)の責任者、メアリーは「歴史を改悪するもの」「これが原因で何が起きても責任は持てない」としている。「中国政府によるチベット搾取政策の50年を映し出している」とチベットの正しい歴史を知らない西洋人が非難しているのである。
「中国による支配で起きている様々な問題を隠し、チベットの歴史を無視している」。チベット亡命政府スポークスマンのソナム・ダクポは「チベット人がこの記念日の催しに嫌々参加させられている」と妄言を述べ、「チベット人は1959年に解放されたのではなく、中国人の奴隷にさせられたのだ」と国際社会を欺こうとしている。
ダライ・ラマグループはこのように正反対に理解し、チベットの本当の歴史と一致しない主張を広めており、西側メディアはこれを批判することなく伝えている。
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